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ぼくは“役に立つ”よりも“意味がある”人間になりたい

論理的っていうのは、機械的とも言えるわけですが、機械的な意味で期待できる効果って「役に立つ」もの

逆に、感情的で情動的な意味で期待される効果や効用ってのは「意味がある」もの

最近、あらゆる産業や事業が「機械化」を唱いながら、その手法や内容をあらゆる角度から模索している状態で、そのサービスの主体を誰がどうやって握るのか、みたいな話が日々、ネットの中では記事になったりしているわけで、そろそろ、それを読んでいるであろう、あらゆる「中の人」たちも飽きてきたのではないでしょうか。

産業革命ってのは「社会」って教科の「歴史」で学ぶ、世界の中でも大きな変換点だったってのは、何が起こったのかまでは覚えていなくとも、言葉ぐらいは聞いた経験がある人の方が多数派だと思いますが、人がやってた仕事を機械が担えるようになって得られるものは「時間」。

いま、第四次産業革命の真っ只中だと言われており、「え?いつの間に第二次、三次があったの!?」なんて人も中にはいるかもしれませんので、簡単に振り返ってみると…

第一次は「蒸気機関によって工業化」が進みましたし、第二次は「電力により大量生産」が可能になりました。第三次では「情報通信技術」、いわゆるネットを手に入れたぼくたちは、現在の第四次では「ビッグデータやICT、AIなど」の何だかすごそうな横文字たちから、もっともっと事業の効率化を図りましょうって流れになってます。

「役に立つ」と「意味を見出す」

これまでぼくたちが生きてきた世界では、「役に立つ人間」が仕事をする上では不可欠でしたし、その現状はいまだに変わってはいないでしょう。役に立つ人は、先天的にも後天的にも論理的に物事を捉えては理路整然としており、グイグイと各企業の事業を引っ張ってきました。

しばらくはそれが変わるものではないでしょうが、論理的、客観的な評価は履歴や実績による数値的なものですので、計算や関数の世界になってきます。

これまでは計算式や関数を人間が設定するからこそ、表計算ソフトを利用するための機械が一気に普及することも相まって、「役に立つ人たち」が大活躍できました。

では、計算式や関数を機械が自ら吸い上げた上で、自動的に数値を出し、数値上の「最適解」を表示できるようになった際には、役に立つひとたちの活躍の場がなくなるのでしょうか。

いえいえ、そうではなくて、これまでのビジネスの世界でも間違いなく「感情」や「情動」の面で結果につなげてきた人たちがいたのは、ぼくだけではなく、会社勤めをしてきた人たちならば、なんとなく理解と納得ができるはず。

数値上の正誤だけでなく、その数値へ「意味」を見出し、付け加えられる人が、これまでもいましたし、これからも出てくるでしょう。

今後、機械化がドンドンと進んでいく中で、この流れに逆らおうと思っても仕方ありませんし、何よりも、ぼくたちはこれまで以上に、自分の暮らしに対して「意味」を見出そうとするのではないか、とぼくは思っています。


「意味の見出し合い」を行えるオンラインサロン

堀江貴文さんや、キングコング西野さん、編集者である箕輪さんなど、本当にたくさんのオンラインサロンが立ち上がっており、その中でも多くの人たちが集まり、活発に活動をしているサロンは、対外的な発信の量も質も高いものが多くなっています。

これまでの主要な価値観だった、自分が「役に立つ」場面が仕事だけに限らないのだと気づいた人たちが、それぞれの特徴や色を出しながら、他のサロンともドンドンと絡み、活発な活動が行われるようになりましたが、それは「意味の見出し合い」が始まったからではないか、とぼくは見ています。

工業化、大量生産の時代を生きるためには「役に立つ」存在が必要であり、そのためには論理的で機械的で客観的な視点や物の考え方が必要でした。

今後、それがなくなるのかといえばなくなりはしないでしょうし、人の評価を定める上での評価軸の一つであることに変わりはないように思います。

今後はそれと同等程度に評価軸として上がってくるのが、人の感情や情動をうまく引き出しながら、特徴をうまく出してもらう「場」を提供できる人材の評価が高くなってくるのでしょうし、実際、その人たちはすでにオンラインサロンっていう場所で「意味を探しにくる人たち」に対して、きちんと「意味」を提供できているわけです。

地方都市ではどちらも必要…だよね

東京の人口は毎月1万人単位で増え続けているそうで、年間で10万人以上が東京へ住み始めているそうで、しばらく満員電車が終わりを迎えるのは難しそうです。

ただ、それだけの人の母数がいれば、どちらも兼ね揃えた人が集まってくるのも納得できますし、逆に集まらないのであれば、それはそれで問題だろうとも思ってしまいます。

ぼくが住む新潟みたいな地方都市は、今後、ドンドンと人が減少していき、産業も各都道府県内だけで賄えるようになるわけもなく、何もしなければ各自治体名が集約化されていく可能性もあるかもしれません。

そんな中では「役に立つ」し、「意味がある」ことも提供できる人になれるのであれば、いうことはありませんし、ぼくもそうでありたいと常に思っています。

思ってはいるものの、いうほどに簡単ではなく、ぼくなんかは論理的、客観的な意味での仕事は決してできませんし、実際に仕事上で大きな仕事をやってのけた!といえるような実績もありません。

ただ、これまでに課外活動的に動いてきたものが「意味」を提供できているのだと実感していますし、それを応援してくれる、支援してくれる人たち、つまりは仲間が徐々にではありますが、集まってきてくれるのも体感しています。

集まってきてくださる、みなさんの顔を見ていると、それぞれに自分の領分での実力をしっかりと発揮する場所として、ぼくとの「機会」を選んでくれているように思いますし、ぼくは何よりもそれがうれしいと感じます。

ぼくが「機会」や「場所」の設定をし、そこにいろんな人たちが「意味」を見出しては、それぞれの色や特徴を絡ませていく様子を見ていると、ものすごくワクワクしますし、この動きがもっともっと継続的、自発的に動き出していくのが地方都市の課題なんじゃないのかなぁ、と勝手に思ってます。

そんな「意味」で考えると、ぼくがやってきたものだって、別に無駄じゃなかったなぁ、と思いますし、自分の体でどこまでそれができるのかはわかりませんが、楽しみながら取り組めたらいいよなぁ、とも思っています。

日本、人が減ってるとは言っても、いま、これを読んでくれているあなたも、ぼくもきちんと「生きている」わけで、その「暮らし」や「生活」を幸福にする権利、もっといえば、自分の人生に対する義務があるはず。

具体的に何ができるとかできないとかではなく、自分の中の「意味」を何になら見出せるのかを考えた上で、実際に行動してみると、案外、おもしろいことになるかもしれません。

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