知人でも友人でもない人と接点を失うこと
ようこそ、お越しくださいました。
どうも、えんどう @ryosuke_endo です。
タイトルの件、それほど深い意味はない。そんなの日常茶飯事だろう。
ぼくたちは日常生活を送る中で、知人でも友人でもない人たちと会う機会だけでなく、そもそも津人や友人であっても物理的に会う機会などなくなっている。
ただ、子どもの頃から見続けてきた庶民派の芸人が亡くなってしまったことを残念に思ってしまう。
彼は別にぼくにとって友人でないことだけでなく知人ですらない。TVに出ることができた三人組の大しておもしろいとは思えないのに憎めず、周りの人たちから愛されていることを感じられるような三名のズッコケ具合が好きだった。
誰だって、最後には亡くなってしまうし、世界中には70億人から80億人とされる人口がいるのだから、知人でもなければ友人でもない人なんて大勢いる。
それでも接触機会が減ることは忘れることではない。反対に、接触機会が多くなると親近感みたいなものを誤解することになるのだと気づけたことについて、ほんの少しだけ考えてみたい。
▶︎ 接触機会をつくること
人は忘れられたときに存在感を失うのだろう。
過去にぼくと知人関係になったり友人関係にまで発展をした人だったとしても、ぼくのことを忘れてしまっている人は大勢いるのだろう。逆にぼくがそうしてしまっている人も大勢いるのかもしれない。
先日、ただでさえ嫌いな電話に見知らぬ電話番号から着信があった。
普段ならあえて取らずに再度着信があれば出るかどうかを検討するほどだが、その日は何かしらの用事があり、見知らぬ電話番号から着信があることを見越していたため、即座に応対した。
結果、過去にぼくと知人/友人関係であった人物からの電話だったわけだが、まったく誰なのかわからないまま5分ほど会話していた。
何を会話したのかを忘れてしまうほどに内容なんてないまま、頭の中で「これは誰だ」と連呼しながら相槌を打ってしまう自分に嫌悪感をいだきながらも、なんとなくオトナな対応で乗り切ってしまった。
いま、ソーシャルメディアで顔すら見えない人は、FacebookのようなSNSやTwitterやブログのようなメディアに露出をしていない限り、もしくはあえて情報を取得されるような状態や関係になっていなければ忘れ去られてしまうんだろう。
そんなことを実感した次第である。
▷ ソーシャルメディアがすべてではないものの...
もちろん、ソーシャルメディアが人との関係を構築する絶対的なものではないことは承知の上である。ただ、意思疎通の方法は電話やメールだけにとどまらず、多様性が増した。いろいろな媒体からの接触が多くなったことに加え、それぞれの主戦場みたいなものが出来上がってきているのもまた、事実だろう。
ぼくは電話が嫌いというか苦手意識を持っており、このnoteでも大人同士のやりとりであったとしても電話するためにアポイントを設定すべきだと記載したように、ぼくにとっての心の準備みたいなものが必要になる。
なぜ苦手なのかと問われれば、思考速度が追いつかないからだ。
ぼくは決して有能な人間ではないため即時的な判断したり、即時的な応対をすることができるほどに優秀な脳のCPUを積んでいるわけではない。頭の回転速度、処理速度が遅いため、熟考できる時間がないとツラくなってしまう。
だから、せめてメールやDM、チャットなどの非同期型の連絡手段のほうが丁寧な対応をすることができると(勝手に)思い込んでいるし、そこにどっぷりと浸かり込んでいる。
もう少しいうと、そちらで連絡をもらうことができれば確認し次第のタスク化をしやすいのだが、電話のような同期型の非対面ツールでの連絡となるとそれが難しくなる。
ただ、ぼくがそこに入り浸っているため、そこに頻繁に出てくる人たちとは別にあえて連絡を取るような間柄ではなかったとしても、近況報を勝手に受領している気分になるため親近感を得ているのは事実だ。
逆をいえば、ぼくのタイムラインやフィード上に出てこない人たちは、下手したら存在すら忘れてしまっている可能性が高いため、ぼく自身が注意しなければならないような気もしている。
▷ 忘れてしまうのは接点がないから仕方がない
そうはいいながらも忘れてしまうのは接点がないのだから仕方がない面もある。
ぼくの脳にある容量帯は、よくて7KBほどだろう。決して豊富な余裕のある容量を誇っているわけではない。常にやりくりが必要なほどに切迫している。
妻さんから頼まれる家庭内タスクも一歩、足を出した瞬間に忘れてしまうことが日常茶飯事で、日々、詰められる毎日を過ごしている。
接点がある人との関係であっても依頼ごとを失念してしまうことがあるのに、日常的に接点がどの媒体でもない人のことなど、どうやって覚えていられよう。それこそ自ら卒業写真などのアルバムでも引っ張ってきて静止画に接点を設ければ話は別なのかもしれないが、そんなことをしようだなんてまったく思えない。
中学生の頃に気になっていた異性のことを思い返し、「あのとき、こうしてたら...」みいたいな中二病な妄想ばかり膨らんでしまい、勝手に思い出を美化し始めるのだろうからすべきではない。
能動的であれ、受動的であれ、接点がない人間との関係は決して容易に継続できるものでもなければ、維持できるものでもないのだ。
冒頭で記載したズッコケ三人組の中で、もっともぼくたち素人に近いと思わされるほどに愛くるしいキャラクターを画面越しに表現していた(天然だという話もあるが...)上島竜兵さんは、ぼくの知人でもなければ友人でもない。
それでも過去に画面越しの接触回数が多かったことから、勝手に親近感を抱いていたし、それが誤解であることに気づいたいまでも、彼のことを大好きな自分がいる。
久しぶりの接点が訃報であることは本当に残念で仕方がないが、ぼくにできることはなにもない。だから、再び時間をかけて丁寧に彼のことを忘れていくんだろうと思う。
▷ 物理的な友人知人関係でも同様か
画面越しの親近感など誤解なのだが、過去に築いた物理的な信頼関係や知人/友人関係でも同様なのだろうか。おそらくそうだろう。
ぼくは友人と呼べる人の数は決して多くはない。
そもそも友人と知人の区別は「一緒の空間で気を使わずに過ごせるかどうか」と定義していることもあり、その敷居を乗り越えてくる人物は決して多くないのは誰でもそうだろう。
ただ、ぼくの場合は基本的に引きこもり気質で陰湿で粘り気のある性格なため、そんな面倒でくさそうな人間に近づいてこようとする人なんて当然ながら多くはない。
事実、ぼくは友人だと呼べる人の数が決して多くはないし、困ったときに助け舟を出してくれるような人物となると、さらに限られてくる。
別に薄情なつもりはないのだが、接点を持つ人と持てなくなった人たちとの間には、当然ながら空気というか壁というか、なんとも形容のしようがない距離が発生してしまう。それが忘れる、ということなのだろう。しらんけど。
いずれにしても、これを読んでくださって認知してくださっただけでなく、日常的に読んでくださっている方々に御礼を申し上げたい。
ぼくを覚えていてくれて、接点を持ってくれてありがとう。
ではでは。
えんどう
▶︎ おまけ
▷ 紹介したいnote
職場の人間関係を考える
おとなになると人間関係は広範に渡ってくるものの、子どもたちは強制的に生まれた年代と地域によって学校って枠に区分けされる。この善し悪しを考えると、そこでのみ完結させようとする場合には悪だろう。
人間関係は、お花と同じ
花を育てたことがない。小学校一年生の頃にアサガオの種を配られたものの、クラスの中で咲かなかったのはぼくだけだった。「誰でも咲かせられるのに..」とかいわれて、更に傷ついた記憶がある。だから、ぼくに育てるとか育むみたいなことは無理なのかもしれない。
一番のストレスは人間関係
人間関係というか、苦手関係みたいなものから開放されると一気に人生が楽になるのかもしれない。勘違いかもしれないが、物理的な親しい距離にいる人との相性が合わなければ苦役にしかならないため、そんな環境に身をおいているのだとしたら処世術を身につけるか逃げたほうがいい。
▷ 紹介したい関連書籍
嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え
何でもかんでも自分に紐付けて自分が影響を与えることを気にしている人がいるのだが、自分が発した言葉や何かしらの発信を受領し、それに影響を受けることを選択したのは相手の問題で、自分の問題ではない、といったことが書いてあるので読んだら楽になる人は多いのではないか。
▷ えんどうのTwitterアカウント
僕の主な生息SNSはTwitterで、日々、意識ひくい系の投稿を繰り返している。気になる人はぜひ以下から覗いてみて欲しい。何ならフォローしてくれると毎日書いているnoteの更新情報をお届けする。
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