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本を読むことで本質的に得たいとこと

## ここでなにを
本を読むことによって「得たい」と思っていることは知識や見識といった定型的なものなのではなく、自己承認を満たすためなのではないか、なんて話。

どうも、えんどうです。

本を読むことが大好きなのですが、その時間を確保できないときに限って読みたい本が積み重なっていくっていうどうしようもないループに入り込んでしまってきています。

「積読する本がなくなってきている=読書に対する気持ちが下がってきている」とする言説に触れてからは、積読をしている状況が好きだったりしたのですが、よくよく考えると買って満足しているだけのダメな奴に成り下がっているのではないかと思い始めました。

確かに、積読できてない状況は気持ちがいいものではなく、読みたい本が次々に出てきていないことは自分自身の向学心や向上心に陰りが見えているともいえるのではないかとは思うのです。

しかし、本を買って満足するブックホルダー的な姿勢でもあるのではないかと思うと、ものすごく残念な気持ちにも......。それはもう、本に対する冒涜ですらあるのではないか。また、著者、編集、印刷など一冊の本を仕上げるまでに関わってくれている多くの人たちを愚弄する行為なのではないか、とすら思うわけですよ。

そこでふと思ったのですが、なぜ、ボクは本を読むのでしょう。なぜ、あなたは本を読むのでしょう。

本を読んで得たいことってなんですか

本を読んで得たいことを述べてください、と言われたら「今の自分にはない知識や見識、経験を取り込みたい」とか「創作物の中に入ることで自分の想像性(創造性)を刺激されたい」とか、なんだかそれっぽいことを言いたくなるなぁ...と思ってます。

そうじゃないんですよね、きっと。

本を読み始めた頃のボクを思い返すと、何かしらの本を手に取って「自分はこの本を読んでいる」って自慢したいというか、見栄を張るためのラベルやタグとして本を読んでいたように思います。

さらに振り返って、まったく本を読まなかった未成年の頃を振り返ると、なんだか分厚い本を手に取って読んでいる人がいたら「うわぁ...すげ」とか「頭いいんだなぁ」なんて、フワッとした感情を抱いてしまっていましたし、なぜか「本を読むことは負けだ」ぐらいに考えてました。

何を持って負けなのかを説明できなかったであろうことからも、さっぱり理解できませんし、理解のしようがありませんが、本の内容(著者の意向や思考)を誇らしげに当事者ではないのに雄弁と語る人に対して陳腐さを感じていたのかもしれません。

本を読む側ではなく、書く側に回れるように知識や見識、経験を身につけるべきであり、それができていないのに本の内容を雄弁と語ることに「かっこわるい」とレッテルを貼っていたのです。当時の自分とはいえ、なんとも恥ずかしい気持ちになります。

でも、本って読んでも忘れてしまう

新書であれば60分とか90分を費やして読んだり、少し厚めの専門書などであれば総計して6時間とかかけて読んだとして、その時間分を記憶容量の中に詰め込んでおけるのかといえば、そんなこともありません。

人の記憶容量は決まっている上に、その人にとって重要でないことは遠慮なく削除されていきます。いい例が、ボクが20年以上前に中学生の頃に授業で習った古文や漢文の文章を「思い出せ」と言われても一切思い出せません。

当時もそうですが、いまとなっても古文や漢文がボクの人生に対して好影響を与えてくれる機会は一切なく、まったくもって不要なものだったと認識しているからなのか、記憶の断片すらありません。あの時間、ボクはなにをしていたのでしょう。

人の記憶容量に上限があって、優先順位づけがなされる以上、危機的な状況だったり、狂喜乱舞するような状況や環境で起こった事柄でもない限り、どんどんと消されていくのだろうと思いますし、これからも新たに上書きされた記憶も優先順位づけされては消されていくのだろうと思います。

外付けHDD(ハードディスク)を接続して残せるのであればそうしたいところですが、いまのところ、現代の一般レベルにまで普及している科学技術ではできそうにありませんし、今後もできるかどうかでいえばできなそうですし、それを期待することに価値もないような......

本質的に、なんで読むんでしょうね

読んだところで記憶に残ることも少ないし、それを披露する機会も自分で作らなければ存在し得ないため、記憶に定着する機会もないままに時間が過ぎて行ってしまいます

ああ、ボクは何故に本を読むのが好きだと思っているのでしょう。ん?好き?あ、そうか。もう、好き嫌いの話なのか。自分にとって本を読んでいる時間が好きなんだろうと。

余暇時間を埋めるものって、今の時代はいろいろあります。

YouTubeをはじめとしたオンデマンド型の動画サービスもあれば、SNSもありますし、ソシャゲ(ソーシャルゲーム)だってあります。欲望を掻き立てるサービスはいくらでもあるわけです。

それ以外にだって、自分の健康を保つためには運動をしなければなりませんし、余暇時間以外で言うと身銭を稼ぐために仕事をしなければなりません。それに、きっちりと一定以上の時間を確保して寝たい気持ちもあります。

自分の時間を占有してくるサービスや生活時間に追われる中で「本を読む」って事柄に、ボク自身が高尚な意味を持たせているようにしか思えませんし、むしろ、そうなんだろうと。

その時間を確保した自分を褒めてあげたいんですね、きっと。掃除や洗濯、子どもたちとの時間もあれば、仕事の中で必要な情報収集をしなければならないことなど、やらなければならないと思っていることは多々あります。

それらをひとまず置いておける状況を生み出し、ほんの些細な短い時間かもしれないけれど、本を読める環境を用意できたことに対して、誰でもない自分自身を褒めてあげる意味で本を読むのだと理解しました。

本を読むのは、日々の生活の中できちんと読むだけの時間を確保した自分を認めてあげる時間だからこそ、自己承認欲求を満たせるからこそ、好きなんです。

これを読んでくださっているあなたも、結構、活字に触れるのが好きだったりするのだと思いますが、あなたはなぜ、本を読みますか?


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