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「死刑囚表現展」での作品の一部に触れた雑感(実際には見てないけど)

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

10/23~10/25まで死刑囚の表現展ってのが開催されてました。ご存知の方ってどれぐらいいるでしょうか。

ボクも「ました」って書いている時点でお分かりかと思いますが、その存在すら知らなかったというか昔々に認識していたものの、目一杯失念していました。

記事が出ていたのを覗いてみて、その中で触れられている(紹介されている)表現に接しただけなので大した感想も書けませんが、ボクなりに思うところがあったので記してみます。

##なに書いてるの(要約)
・死刑囚とは誰のことを指すのか
・死刑囚の表現は犯罪を防ぐために活用すべき情報
・働かざる者食うべからず、は日常的に使っていいのかどうか検証すべき

"死刑囚"ってどんな人を指すのか

死刑囚は「死刑の判決が確定した囚人」に対する呼称です。

死刑が執行されるまでその身柄は刑事施設に拘束され、また死刑は自らの生命と引換に罪を償う生命刑とされることから、執行されるとその呼称は「元死刑囚」となります。

恐らく、これをお読みになってくださってる方々は日本に住んでらっしゃるのだと思いますので、ご存知ない方はいらっしゃらないのではないでしょうか。

世界中には196ヵ国あると言われており(外務省ページより)、死刑を実施している国は56ヵ国(日本弁護士連合会PDFより)だとされていて、世界規模でみたら少数派です。(国民数ベースでみたら多数派になるとも言われています)

これを実数として把握する機会がなかった人も少なくないんじゃないかな、と思います。かくいうボクも今回ググってみるまで知りませんでした。

死刑って刑罰は被害者の感情を考えたら理解はできますし、仮に自分が被害者家族だとしたら加害者を許すことはできないでしょう。これはごくごく当然のように理解できますし、存分に共感のできることではあるのです。

人の生死を人の感情によってなすべきなのかどうかといえば「なすべきではない」と言えるのでしょうが、他人の生命を故意的に奪った人間には適応されない、と考えてしまうことについても共感と理解はできます。

だからといって死刑をこのまま制度として残しておくべきかどうかについて、個人的には懐疑的に見ています

根本的な理由としては冤罪があるからで、人が人のことを裁く以上、その裁く判断についてもミスが生じてしまう可能性があることを念頭におくべきだからです。

ただ、今回はそれを前提に死刑を廃止すべきかどうかを議論するつもりはありません。

ちなみに、類似する殺人犯罪に対して死刑自体が犯罪の抑止力として機能するのかどうかと言う点でいうと、国連の調査によって可能性が否定されています。

国連は「死刑と殺人発生率の関係」に関する研究をしており、その結論としては「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。そのような裏付けが近々得られる可能性はない。抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない。」としています。

つまり、死刑制度があるからといって必ずしも殺人発生率が減少することにはつながらないことが立証されています。

死刑囚の表現の規制されるべきなんでしょうか

遺族感情を前提にしたら、それを見れてしまう環境や状況を用意してしまうことは感情を刺激してしまう形になりますので、寄り添うのであれば開催すべきではないでしょう。

同時に現法上、死刑囚となった人たちが「どんな思考をしているのか」「それをどう表現するのか」を、遺族や被害者以外の人たちが認知・把握できるようにしておくべきだとは思うのです。

論理と感情を別々にする態度にはなるんですけど、人が生活を営む以上は、次なる犯罪を完全になくすことはできないとしても、「防ぐ」「起こさせない」ってことに向けて努力をし続けなければなりません。

それでいうと死刑囚がどんな表現をするのかという情報を取得する機会を得ることは、人が社会生活を営む上では必要な情報を入手できる機会だと思うのです。

逆に、その機会を「遺族や被害者感情に寄り添った上で廃止すべき」だとすることは、未来の被害者を減らすための情報取得の機会を損なうことになってしまいます。

批判はあるかも知れませんが、感情を一切無視するのであれ遺族や被害者親族はそれを見なければいい、避ければいい話であり、ボク個人の意見としては今後も継続して開催していってもらいたいと思います。

「日本国憲法第25条」を否定するのか

2016年7月「津久井やまゆり園」で、入所者ら45人が刃物で刺されるなどして襲われ、うち19人が死亡した事件があります。

その事件を起こした植松被告は裁判で以下のように述べており、今回の表現展でも「より多くの人が幸せに生きるための7項目」として三枚にわたる手紙を出典しているのですが、その中の一文は同様のものでした。

<裁判での主張>
「意思疎通のとれない人は不幸を生む」
「お金と時間を奪っているから」
「重度障害者を育てるのは間違っている」
<より多くの人が幸せに生きるための7項目の「安楽死についての記述」>
意思疎通が図れない人間を安楽死させます

植松被告は兼ねてからの主張として、意思疎通が図れない人は周りに対しての迷惑をかけてしまい、時間とお金がかかってしまうだけの存在であると主張し、結果としてそれを行動に移し、人を殺めてしまいました。

もちろん、人を殺めてしまうことは決して認められるべきではありませんし、それを肯定するつもりは一切ありませんが、そこに至った思考を危険的な思想だとするかどうかは一考しなければならないと考えています。

働かざる者食うべからず

この言葉を知っている人は少なくないと思います。

他人の役に立てない人間は飯を食うべきではない。飯を食うべきではないということは栄養を摂取させるべきではないとなり、この話の行末は役に立たないなら死ぬこともやむなし、となってしまいます。

植松被告の行っていることと、犯罪を犯してはいないであろう人たちが述べる「働かざる者食うべからず」は、それほどまでに遠く離れた思想・思考なのかというと、ボクはそうは思いません

日本では国民は生存権を有していることを日本国憲法第25条に定めています。

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

これを前提にするとどちらも日本国憲法第25条を否定することになりす。

この日本の根本的なルールである憲法の中には、どんな人であろうとも生存権を有していることを明記しているのであって、働かなくても(働けなくても)生きていいのだとしています。

それを無視して働かざる者食うべからずという言葉を格言のように使ってきたことは肯定されるべきものなのでしょうか。そんな風に考えています。

これをお読みになったあなたはどう考えますか。よければ意見もらえるとありがたい次第です。

ではでは。


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