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会社と湯婆婆(ゆばーば) 1

真意から書きますね。「名前」です。

あ、最近、文体が結構コロコロと変わってるんですけど、ぼくの気の迷いだと思ってください。

「断定口調でのテキストって、かっけぇ!」って思ったので、ちょっと断定的な口調でテキスト書いてましたが、「らしく」ないかなぁ...なんて思い直しまして、今回のテキストは口語体で。

正確にいえば、ぼくの話し言葉として書いていきます。

さて、生きとし生けるものであるぼくたちは、だれしも名前がありますよね。

名前。

いわゆるDQNネームやキラキラネームと若干の蔑みを持たれるような名前であったとしても、親は希望を胸に「あーでもないこーでもない」と考えた末につけられている。つまり「思い」が詰まってるということ。

我が家でも、長男や次男、そして三男へ名前をつける際には、時期や響き、語感、呼びかけやすさ、などをはじめ、それぞれに百項目以上をあげたうえで、それらを7割以上クリアした名前をつけています。

ごめんなさい。ウソです。画数も気にしませんでした。

ただ、呼びかけやすく、親しみやすい名前を選んであげたいと思ったのは事実です。いまでは子どもたちが自分の名前を口にしている様子をみるにつけ、妙にうれしくなるものです。

今回のタイトルに書いてる「会社」と「湯婆婆(ゆばあば)」に共通するもの、何かぱっと思い浮かびますか。

ぼくの抱えている現状の答えは「名前」を奪われるということ。

ちょっとエキセントリックな表現かもしれませんね。誰かに怒られるかもしれません。

以前、体調を崩したことを期に書いた、いわゆる「組織」と呼ばれる集合体が目指すべきあり方について考えた記事はこちら

今回のテキストを書くにあたり読み返してみたら、ここでも名前のことを挙げてましたね、と。

自分が書いてるから当然といえば当然なのですが...

「会社に属する」こと「=何をしようがその成果物は会社のもの」になるから、会社は「誰かがいなくなっても回る」ものだし、「回るような仕組み」にすることが大切なんだ、ということを書きました。

ただ、その中でも最近は少しだけ趣が変わってきていて、ZOZOの田端さんみたいに自らを際立たせることで、貢献する事もできるようになってきたようにも思えます、と。

だから「だれかに説明できる自分」にならないとですね、なんて締めてるわけです。

とはいえ、「ZOZOのやること」=「田端信太郎がやること」とはなりませんよね。どうなるかといえば、「ZOZOの田端信太郎」がやったことになるわけです。

田端さんを例に取ると、よくわからなくなりますが、自分に置き換えてみればわかりやすいですね。

ぼくのような、普通のサラリーマンが会社に属するということは、ですよ。

自分の名前を出さず、会社の利益を出すために、または会社の利益に繋がるような役割を担うことの対価として給与を得ることになりますね。

船乗りでいえば、ぼくは船員でしかなく、船長ではないわけです。たとえば難しいとされる大航海時代の船乗りたちでいえば、インドまで行って帰ってくる船の船長が誰なのか、は皆が注目するわけですが、船員なんて誰も知らないわけです。

別に名前を出してはいけない、というわけではないけれど、出したところで『船員でしょ』となる。

個人の名前を出したいのであれば、船長になって船を難しい航海から帰還させなければならない。

もちろん、いま、メディアがそうであるように個人が認知を得やすい状況ではあるわけですが、果たして、それは何をどうしたらいいんでしょうね。

長くなりそうなので、次回にします。

(つづく)

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