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#分断ヲ手当テスルト云フ事 を見て、ぼくは『分断』を考えたことがなかったことに気づいた。

元NHKアナウンサーで、現在はジャーナリストとして活動をされている堀潤さんの初監督作品である『わたしは分断を許さない』(映画のクラウドファンディングサイト)へ繋がる写真や映像を観ることができる #分断ヲ手当テスルト云フ事 が新潟市中央区のりゅーとぴあで開催されているのを知り、ちょうど時間が作れたのもあり、お邪魔してきた。

所用を済ませつつ、現地に向かうまでの間、今回、堀さんが割と強い言葉である『分断(ぶんだん)』を使っている理由について考えながら向かった。

分断で辞書を引いてみると以下のように出てきて、やっぱり「人」を対象にした場合には、傷つける可能性すらある「強い」言葉だ。

分けて別々にすること。分けて切れ切れにすること。

ただ、実際に現地に着き、写真と映像をみてみると、その真意の一旦が垣間見れたような気がした。

ぼくは彼らのことを何も知らない

到着するなり、気づくのは会場の奥で流れているであろう映像の音。4パターンの映像が流されており、それぞれが15分~25分ほどでまとめられている映像たちは、どれも「人」が映っていた。

地球の中にあるどこかのキレイな景観ではなく、動物たちの生態を追うようなものでもなく、間違いなく、ぼくたちと同じく息を吸い、食事をして、他人と話し、時差はあれど同じ時間を過ごす、紛れもない「人」の様子が撮影されたものだった。

写真や映像として展示されているのは、生活圏内のような「近い世界」ではなく、「遠い世界」だ。だけど、その遠近を測るのは物理的な距離ではなく、心理的な距離

パレスチナのガザ地区をはじめ、カンボジアのプノンペン、朝鮮民主主義人民共和国などの写真や映像もみることができる。それと同時に、同じ「国」であり、同じ「日本人」である沖縄や福島の様子も展示されている。

「あぁ、ぼくは日本のことなのに、何も知らない。」

率直な感想だった。

2011年の原発事故以降、福島県が一部の人たちによって、さも蔑称されるがごとく「フクシマ」とカタカナ表記されているのは知っていたし、その理由が原発事故に端を発した放射線量の認識誤認からきているものだろうとは理解していたし、沖縄も普天間や辺野古などの基地問題があるのだと各種報道で「知ってるつもり」ではいた。

でも、ぼくは何も知らない。

そこで暮らす人たちが、その問題を抱えていることに対して、どんな感情を抱き、どんな表情でそれを受け止め、どんな口調でそれらを語るのか。

見たことも、聞いたこともない。

それは沖縄や福島に限らず、他の国や地域に対しても同じだった。言葉の壁があるからだとか、物理的な距離があるからではなく、ぼくは「知ろうとしなかった」んだ。それが『分断』を生み出す土壌になるのではないかと気づいた。

分断や差別は自分が発端かもしれない

人には「感情」がある。

それは日本だと喜怒哀楽と表現されるけれど、その4種類だけに限らず、もっと微細な感情をぼくたちは持ち合わせている。嬉しくて泣くこともあれば、悲しくても笑うことだってある。

ぼくは自分に「関連しない」と感じているものに対して感情が動くことはない。それはぼく以外の誰だって同じだろう。どこの誰だかわからない高齢者が亡くなった事実よりも、一緒に暮らすペットの犬が死んだ事実の方が悲しく、切ない気持ちになる。

だけど、今回のテーマである『分断』は、意図的にしろ、意図的でないにしろ、「自分とは遠い世界」だとして「別問題だ」とする無関心が引き起こしているのかもしれない。

香港のデモは、ぼくの生活に直結はしないかもしれないけど、「同じ世界で起こっていること」であり、ぼくにとって「無関係」なのかといえば、決してそうではない。なぜなら、ぼくが住む日本の中に「福島」や「沖縄」があるのだから。

ましてや、新潟に住む人間として、朝鮮民主主義人民共和国は深い関係にある"はず"だ。それは拉致被害者の会があり、彼らの中ではいまだに問題は解決がされていない。

身近に感じられる問題であるはずなのに、ぼくは「関係がないこと」として片付け、「意識しなくていい」と片付けていた。その認識の延長にこそ、『分断』や『差別』が生まれるのではないか。

そう考えると、ぼくはいつだって差別や分断の発端者になりうる可能性を秘めているし、それを各種SNSを利用して伝搬できる状態になっているのだと気づく。

とても怖いことであり、同時に、とても哀しいことだ。

ぶつかった感情が納めるのはいつ・誰が行うのか

世界中には、今回展示されている以外の事象だってたくさんある。

簡単に挙げられるだけでも、スーダンでも特殊部隊が反乱を起こしていて、その根幹的な問題は差別や分断だともいえるし、アメリカとイランとの間には戦争直前とまで言われるぐらい緊迫した感情が蠢いている。

今回、展示されている映像の中で、香港デモの最中に警察から逃げる映像が流されているし、その近くには逮捕される青年を撮った写真も展示されていて、その下には撮影者のコメントもある。

互いの主張を昂(たかぶ)った状態でぶつけ合っているため、おそらく「何も変わらない」し、「変えようがない」。だけど、感情があるからこそ、何かしらの「共通項」一つによって、その関係性がグルンと180度変わることだって、存分にあり得るはずだ。

だけど、それは昂った状態では無理。そんなことはぼくにだってわかる。

妻と口喧嘩をしたり、息子と言い合ったりする際に、お互いに感情が昂った状態では「理解」にはたどり着けない。息を整え、落ち着きながら、相手のことを正視した状態を作ることで、初めて理解への「線」を超えることができる。

そんなに難しいことではない。だからこそ難しいのもわかる。

「多様性の時代」と呼ばれるように、たくさんの権利や主張、人種を含めて「平等に、そして公平に」見なければならない世界線の中で、ぼくたちが「理解しなければならないこと」は増える。それによって越えなければならない「線」も、たくさん生じてくる。

無視し、理解せず、頭ごなしに否定をしてしまえば、簡単に『分断』が起こる。それを「される側」は溜まったものではない。生きている心地すらないかもしれない。

そんな状態は避けなきゃいけない。だけど、その方が「楽だから」「考えるのが面倒だから」そのままにしてしまうかもしれない。

だけど、それをどうにかするのは自分であり、自分たちしかいない。

改めて、人と人とが容易に繋がれる時代になっているからこそ、今は「当事者の時代」なんだな、と強く強く認識する機会になった。

堀潤さん、大切な機会をありがとうございます。

ちょうど新潟にいらっしゃるタイミングで観にいけたので、感想をお話しさせていただき、一緒に写真を撮っていただきました。

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映画、楽しみだ。

映画は3月から公開されるそうですが、クラウドファンディングも募集しています。これを機会に、ぼくを含めて当事者の「意識」を持つ人が増えるといいな。そう思う次第です。


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