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「でんぢゃらすじーさんがダメな理由」 @soyamanga が「仕事をダメにしない方法」に脳内変換された話

どうも、えんどうです。

コロコロコミックの人気作品に「でんぢゃらすじーさん」ってのがあります。

我が家の長男くんも学童保育で読むらしく、自宅に帰ってきて思い出し笑いとかされてらっしゃいます。突然の笑い出しに家族一堂で驚くのですが、思い出し笑いをしながら話しているので何を話してるのかサッパリわからないことが多々あります。

だとしても、ぼくや妻さんは彼の楽しそうな様子をみれることに満足感を得られるので何の問題もございませんが。

コロコロコミックのギャグ漫画となると、ぼくの世代では「キヨハラくん」とか「ラモズくん」的なポジションだと思っていますが、認識あっていますでしょうか。間違ってたらすいません。

今回の本題は、でんぢゃらすじーさんの作者である曽山さんが編集さんとやりとりした記録を漫画で書いてくれているのですが、その中の一節というか項目に「でんぢゃらすじーさんがダメな理由」ってものがありまして、それがあまりにも他の業種や職種に問わずに適応される内容だな、と思ったことを共有するものです。

まずは一読いただいた方がいいと思うので、ぜひ、ご覧になっていただきたい次第でございます。

編集者目線でのキビシイ指摘

本筋はブログ内容を読んでいただいたらわかるように、作者が手掛ける漫画の領域から離れた際にキャラクターたちや物語が「死んでしまう」、つまりは「漫画しかおもしろくない」状態を生み出してしまっていることを指摘するものです。

漫画で一定以上の人気をとれている作品で、アニメ化までされている作品にここまで指摘をできるということは、そもそも作者と編集者との間に信頼関係が構築されていることは前提でしょう。

それにしても、作者としては自分の作品がそれなりに人気を集めていることを実感している最中で非常に辛辣な指摘・意見をもらう形になっているので受け止めづらい部分が多々あるはず。

実際、そこから大きな苦悩を抱えながら漫画制作に向き合いつつ、YouTubeでのアニメ化に至る過程を描いてくれているわけですが、互いに本気なんだということを実感する内容になってます。

また、「君にしか描けない作品を描け」ではなく、「誰があつかっても面白くなるキャラクターを作りなさい」と言える編集さんの「仕事力」みたいなものに圧倒された次第です。

漫画制作以外の仕事でも同じ

この編集さんの言葉は、漫画制作以外の仕事でもまったく同じことがいえます。

たとえば、企画制作をする人たちであれば立ち上げる企画を「誰があつかってもいい企画にしなさい」と言われたら、独自色の強い奇抜なものにするのではなく、企画が一人歩きして次々と話題になったり派生して行ったりする枠組みを用意することに躍起になるでしょう。

別に企画だとか大層なものでなくて、メール文一つでも同様のことがいえちゃいます。

社外の取引先とやりとりをするメール文は、会社として公式な文章、つまりは根拠として扱われるものですから、自分が送った文章が相手先の中でどのように扱われるのかを想像して文章・構成を考える必要があります。

単発でやりとりを重ねるのではなく、幾度となくやりとりをするにしても会社として譲れる部分と譲れない部分を出し引きしながら、決める際にはサクッと決められるような文章とできるのかどうか。

自分が送るメール文一つでも、相手の会社内で「どう扱われるのか」までを踏まえて文章を考えて送る必要があるのです。

それって簡単なようでいて難しい。

家族や友だちの考えていることだって想像したところで当たっているかどうかわからないのに、顔も見えない間柄の取引先や顔が見えたとしても腹のさぐり合いが済んでもいない状態で出し引きをするようなことって、随分と高尚なものです。

それでも仕事を円滑に進めるためには、自分の手から離れたとしても取り扱いがしやすい状態に仕上げたり、あえて改善の余地を残したりするなどの工夫が入れることが大事なんだよな、と今回の内容を読んで実感したことでもあります。

読んで共感されるから物語になる

漫画家になろうとする人たちは「自分にしか描けない漫画」を目指す者たちであり、いかにして「独自」と「共感」の狭間を絶妙な配置で読者に届けるのかって点を突くことに躍起になりつつ、語り継がれることを目指す人たちです。

ぼくの好きな言葉に「読んで共感されるから物語になる」があります。

どういうことかっていうと、読まれて共感されない作品は「続かない」んですよ。続かないってことは漫画の登場人物たちの物語も強制的に終わりを遂げることになります。なので、共感が内包されていない作品は物語になり切る前に終わってしまうことになるってことです。

ただ、共感ばかりを狙いすぎると大衆迎合的で大した抑揚のない作品に成り下がってしまいますから、独自の色が大事になります。

ドラゴンボールで言えば、ナメック星編(フリーザ編)でフリーザと悟空の対決は絶望の連続でした。10倍界王拳で歯が立たず、20倍界王拳でのカメハメ波でも倒せなかった上に、超巨大な元気玉を使っても倒すことができなかった。

この時の読者であるぼくの絶望感ったらないわけですよ。

最終的には超サイヤ人化した悟空がフリーザを圧倒するものの、ナメック星の爆発に巻き込まれることになって終わるっていう救いようがない終わり方。

一辺倒ではなく、切り札を出して強敵を倒すって定番な流れではなく、そこに何度も何度も読者と絶望を共感しつつ、独自の展開として伏線を張り続けてきた超サイヤ人の登場で解決させるものの、最終的には気になる展開で強制的に終わらせる、と。

この辺りの葛藤みたいなものは以下の鳥嶋さん応えるインタビュー中にも出てくるので、こちらも一読されることをオススメします。

大事なのは「続けること」であり、続けるための「共感」と「独自」の狭間が大事なんだってことを認識しながら仕事をしていきたいと思えました。

ではでは。


えんどう

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