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"教育"が「理想ばかり」な上に「遠すぎ」て考えるのがツラいです。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

共に暮らす子どもが小学校へ入学したのと同時に「教育」や「学習」ってものについて考える機会が増え、それらが「学校教育」を前提に考えられていることに疑問を感じられてしまうのですが、今日はその辺について。

「教育」は定義がイマイチしっくりこない

まず、やっぱり何かについて考える際には定義を知りたいな、と思ってしまう派なのですが、日本の中では憲法の中にある教育基本法をみることが手取り早いかな、と思うので法律をみてみると...

法律
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

「人格の完成」や「社会の形成者として必要な資質」、「健康な国民の育成」なんて具合に抽象的な言い回しで記述してあります。これはこれでわかりました。

じゃ、教育を調査研究をする立場にある教育学の立場から教育をどのように捉えた上で教育を常に考えているのかをみてみます。

教育学
教育学は、基本的には、よりよく生きることのできる人間を育成する活動という研究対象によって定義され、研究方法によって定義される学問ではない。

「よりよく生きることのできる人間を育成する活動」とありますね。こちらもなんだか抽象的ですが、まぁ、そういうことなんだろうと受け止めます。

そしたら、市井の人たちがまとめ上げているWikipediaからみてみましょう。彼ら(編集者)の言葉は憲法的に崇高なものでもなければ、教育学的な堅苦しいものでもないはず。感覚としてはボクに近いのかもしれません。

教育(wikipedia)
教育(きょういく、英語: education)とは、対象の人間の心身を変化させることを目的とした活動である

「対象の人間の心身を変化させることを目的とした活動」...。ふむ。何だか雰囲気はつかめますが、しっくりきているのかといえば微妙なところです。

言ってしまえば、教育はゴール設定ができるようでいてできないものですから、きちんとした定義が必要なのかといえば微妙な気もしてきました。

言い方は悪くなりますが、曖昧な理想を掲げつつ、教育の提供者や対象者に答えを見出させる、何というか上から目線で述べるしかことしかできないのかもしれません。

理想に近づけるために現場が必死

「教育」って、結局は国としてどんな人たちを義務教育期間の中で育んで行こうかって設計や理想を実現させていく過程なわけですが、そこに少しでも近づけるために現場が必死なことは学習指導要領を見れば一目瞭然です。

あまり目にする機会もなければ意識することもないとは思いますが、基本的に義務教育でも高等教育でも学習指導要領って指針に沿ったシラバスやカリキュラムを組み立てています。

特に義務教育における学習指導要領って、物凄い量ですし、何ならそれを教科書にまとめあげることができていることって、とてつもないことなのだと理解できてしまいます。

ただ、やることが多すぎます。

おそらく、小学校や中学校に通っていた時期、そんな風にして認識していたり、苦手意識を持っている教科があったりした方もいるとは思いますが、そもそもあんなに多岐にわたる教科を詰め込んでいくような状態が健全なのかというと、ボクみたいな人間には甚だ疑問なのです。

その中でもボクは漢文と道徳に対して、かなり否定的な見方をしていますし、人によっては他の教科に向けて同様の主観や感想、主張をお持ちかと思いますが、果たして現実的なのかどうかの検証って誰がいつやってくれるのでしょう。

生きるために必要なことを共有し合うことが「教育」かな

根本的に文科省が定める学習指導要領をすべて満遍なく、不足なく習得できるのだとしたら、世の中の物事について「確かな知識と見識」と持った上で生活ができることは理解できますし、それができたら素晴らしいな、とボクだって思います。

ただ、そこに対象者である学習者に「意味」があるのかというと「不明」でしょう。

現状は、国として、教育者として、それぞれの立場から「こうした方がいい」「これを知っていることによって損をしない」と、ある種"押し付ける"形になってしまっているわけです。

本人が自分なりの文脈で、自分にとっての意義を見出し、その知識や見識を深掘りしていくことや、自らの生き方に影響を与えるような「意味」を見出せるかどうかは学校教育だけでは賄えないはず。

そして、ボクたちは学校以外の世界で生きることの方が長く、その道のりは険しいわけで、何を学べば自分が生きていくのに意味があるのかを見いだせない状態は、自らの幸福を探すことすら困難なのではないかと心配になってしまいます。

それは上から目線で誰かが決めた基準での正解を求められることに適応してしまった結果、自分以外の誰かが求める幸福を自分の幸福だと認識して苦しんでしまうことにもつながってしまうのではないか、とボクなんかは連想してしまいます。

もうちょっと単純に、「生きる」「生きながらえる」ために必要な知識や技術を習得すること、既に習得している人たちから共有してもらえること。それが教育なんだと言ってくれたらいいのに。

何だか理想や理念を追い求めるあまり、結構な遠いところで話をされているような気になっていますし、あまり教育に期待しすぎるのもどうかなぁ、と思っています。同時に、学校以外の場や機会を軽視しているのではないかな、と不安にもなります。

我が家で共に暮らす子どもたちには、誰かに教えられるような知識や見識を持ってもらえるような、その知識や見識を得たくなるような機会を提供したいなぁ、と考えつつ、その困難さにぶち当たって悩んでるボクです。

ちなみに、ボクはたまごご飯(たまごかけご飯)を食べる時に幸福度が高くなります。いろいろな楽しみ方を実践できるからってのが理由でして、その辺りはまた機会があれば書いてみます。

ではでは。

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