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子どもとの生活は、それまでの生活基準を捨てることの連続だ。

ようこそ、お越しくださいました。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

「子どもとの生活にはお金がかかる」「子どもと生活をすると自分の時間がなくなる」

これらが、これから子どもとの生活を始めるか否かの判断をする人たちにとっての判断材料としてマイナス要因になっているであろうことは存分に理解できる。

詳細は後述するとして、日本で子どもと生活をしはじめようとする人が少なくなっている現状と理由について考察していきたいと思う。

▶︎ 子どもとの生活で生活のグレードが落ちるのは当然

子どもとの生活で幸福度があがったとする投稿は各social mediaの多数派を占めることだろう。なぜなら、そう述べなければならないような風潮、平たくいえば雰囲気があるからに他ならない。

ぼく自身、子どもと生活をはじめるまでは子どもが苦手だった。苦手どころか嫌いな部類であったと自覚している。彼らの傍若無人な振る舞いを許すことができなかったし、それを許容できるほどにぼく自身にも余裕を持つことができなかったからだ。

しかし、運に恵まれて子どもと生活をはじめてみると、たしかにかわいい。愛しい。弱々しく、一人では何もできない赤子を保護養育しなければならない理由を両手に自覚することができた。

それと同時に家族の時間が増え、自分個人で自由に利用できる時間は刻一刻と減少していくことも身をもって体感したし、金銭的にも決して恵まれることがないことも実感してきた。

若い世代の人たちが自分の生活水準を落としたくない。懸命に働きたい、自己実現をしていきたいと考えるのは仕方がないことだと思うものの、それを半ば諦めた人にしか担えないのが子どもとの生活であるともいえる。

我が家は3名の子どもとの生活を送ることに恵まれているが、金銭的に余裕になることはないし、時間的な余裕を見出すことも困難である。子どもとの時間を確保するためには日中の就労時間をどうにか深夜帯や早朝帯で調整しなければならないし、そうしなければ伴侶である妻さんの感情的な拠り所がなくなってしまう。

帰宅時間が遅くなればなるほどに、子どもとの時間を押し付けるような形になってしまうことから、第一子や第二子、第三子と人数に関係なく生まれたてから1年2年ほどの乳幼児期の子どもと生活する際には特に制限を自発的に設けることが必要になる。

一度、その制限を設ける態度をとってしまえば、引き返すことはできない。期待値はそこで維持され、それを満たすことができなければ叱責や罵倒を受けることを覚悟しなければならない。

ぼくの場合は、それを自分でもやりたいと思っているし、そうすることが自分のためでもあると考えている。いや、考えられるようになったというべきだろうか。少なくとも苦には感じないし、感じるような心持ちにもない。
ただ、独身時代のように夜遅くまで自分の好きな時間になるまでダラダラと就労するふりをするようなことはなくなったし、フラフラと帰り道に寄り道をしては無駄な消費をすることも無くなった。

健全な生活になったといえば聞こえはいいが、人生における無駄を屠る時間が減少したのである。つまり、子どもと生活をすることによって生活水準は下がったのだ。これを否定できる人がいるとは思えない。

また、それを覚悟・許容できないのであれば子どもと生活をするべきではないとも思う。

▷ 決して楽しいことばかりではない子どもとの生活

ぼくは決してすばらしい父親でもないだろうし、優れた子育て論を持ちながら彼らに接している立派な存在でもないが、子どもとの生活を謳歌できている方であると自覚している。

大変なことはある。

いまの時代に則さないネットを遮断したような公立学校教育や保育システムには不満タラタラだし、それに引っ掻き回される状態を享受しなければならないことや現場に文句をいっても仕方がないから...と溜飲を下げたところでどこに行けば問題が解決するのかも調べなければ答えに辿り着く過程すら想定できないことにも嫌気が差す。

しかし、それすらも「子どもと生活ができている側のうれしい悲鳴ではないか」と子どもに恵まれない人から指摘を受けたことがある。当然だ。その過程は望んだところで子どもとの生活が一向に訪れないがため、そうやって嫌だ嫌だといいながらも満悦な表情を浮かべる人間たちを羨ましくも軽蔑しているのかもしれない。

ただ、本当に子どもと生活をしたいのであれば養子でもいいはずだ。現実、ぼくは血が通っているとかいないとか関係なく、子どもと生活をしたいと思えるようになった。それがすばらしいことだとは思わないが、少なくとも我が家はたまたまそうやって養子ではない子どもとの生活ができているだけで、もしぼくと妻さんとの間に子どもが設けられなかったとしたら養子を囲っていたのだと思う。

それは別に恥ずかしいことでもなんでもない。それをおかしくて突飛な行動であると認識する方がおかしな認識なのである。子どもと生活をすることが楽しいを思える人がいる反面、どうしても困難で苦しいと思う人がいるのは当然だろう。

以下のエントリは決して褒め称える内容だとは思わないが、少なくともこのように苦しんで生活をしている人がいるのだって多数派だとは思わないが事実だろうし、部分的にも全面的にも子どもと生活をする人間であれば同意できる箇所がある人はいるはずだ。

子が死んで楽になってしまった

決して楽しいばかりではないのだから、それを自身の生活に入れ込むこと自体はすべてがプラスに働くなどとは到底いえない。だからこそ、自分の生活が充実すればするほどに子どもとの生活を気後れする人たちが増えることは致し方がないことだろう。

▷ 総じて貧しくなる日本国民

もちろん、金銭的な理由で足を伸ばしづらくなっていることも理解できる。
日本人の年収は30年も横ばいで中央値で言えば下がっている現状であるにもかかわらず、先進大国である米国では同じ30年で賃金の平均値が日本の2.5倍、中央値で2.3倍と圧倒的な差が出ている。

同じ暦年を辿ってきて、これだけの差が生じていることから、とてもGDPが世界第3位の国とは思えないのが日本の実情だ。

日本の経済格差は新たな産業の勃興時に富める可能性があるものを優遇せずにいたことの裏返しで、爆発的な利益を上げるような産業が勃興する際に富めるものと富めないものの間で歪んだ所得の格差が生じることで発生するのが経済格差だが、日本では経済格差を述べる以前に富めるものも中流階級から富めないものであっても、すべてにおいて貧しくなっている。

なぜかといえば、物価の上昇指数を購買指数に直接的に反映させず、賃金に反映させているからだ。賃金に反映させるといっても既存の従業員の給与を下げるわけにもいかないから、非正規労働者の比率を高めて人件費を下げることで「値段の据え置き」を図ったことのツケでしかない。金額は据え置き価格のままだが内容量が引き下げられた、いわゆるステルス値上げのような状態が引き起こされるのも購買指数に反映せずに人件費で代替してきたからだ。

「もう辞めた!」大量離職のアメリカで何が!?

つまり日本の中でいわれる経済格差などアメリカや中国の比ではないのだから、逆にもっと格差を生み出すような経済成長がなされなければ総じて貧しくなっていくだけで、なぜだかそれを良しをする空気感や雰囲気みたいなものがどうも解せない。

そもそも子どもに向けた政策が国の選挙における争点になること自体がおかしい。子どもとは国の未来であるのだから、どの政党が政権を握ったところで、そこに資金を投与するのは当然であるはずなのに、なぜか子どもたちや子育て世代への補償充実などを謳わなければならない。

しかも、その政策を決めて実行しようとする政治家に乳幼児期の子育て現役世代は愚か、まともに子どもと向き合ってきたような世代ではない高齢者たちが偉そうにふんぞり返りながら物事を決めては実行している。

地獄絵図のような現実だが、それを選んでいるのは国民なのだから仕方がないのかもしれない。

ただ、政治のような大上段に期待しても仕方がないのだが、一点だけ確かなことがいえる。

子どもと生活をする前から子どもとの生活にかかるお金の心配をするのは間違っている。少なくともどうにかするように生活を組み立てるはずだし、どうにかなるはずだ。

いくら日本が総じて貧しくなっているとしても、世界人口70億人中、非常に裕福な状態で子どもと生活ができている人たちの割合など少数派であり、それ以外の人たちは日本人よりも所得が低くとも生活をしているのは事実だ。

▷ 最後に

別にぼくは育児に関する研究者でもなければ独自の育児論を持って子どもたちを優秀に育て上げようとする人間でもない。地方在住のしがない上に無能側の就労者である。

それでも3名の子どもたちとなんとか生活をすることができているだけでなく、それを軸にした生活も板についてきた。

だからといって何もかもが順調なわけではない。順調に物事が進んでいることなど実感にも程遠いのだが、それでも毎日が充実していることに変わりはないし、子どもたちとの生活がなければ、ここまで彩りに満ちた生活になるとは思えなかった。

我が家は妻さんのお腹を切って子どもたちを出産してくれていることもあり、彼女の身体的な限界値なことからこれ以上、彼女が身籠もって出産することは現実的ではない。ところが、もし、子どもを期待するのであれば養子をとることもやぶさかではない。

それほどに子どもとの生活が充実していると実感しているし、彼らに会えてよかったと思っている。

このように考えられるようになるまでには、ぼく自身の意味不明で根拠のない成長意欲みたいなものを吐き捨てなければならなかったし、自信へ投資するだけの金額を全額子どもたちに振る必要があった。それは妻さんも同様で、二人分の人生における投資や消費、浪費などを子どもたちへ注ぎ込むことが必要なのだ。

それをうれしく、満足する要因として捉えているからこそ、我が家は充実しているように思うが、それを心底毛嫌いするのであれば子どもとの生活をすべきではない。自分の生活水準が落ちることなんて当然だからだ。

それを享受する、もしくは理解できている人がはじめて、子どもとの生活に充実感を覚えるであろうことを、ぼくは身をもって実感している。だからといって偉いわけでもなんでもない。ぼくはそうしたいと思っているだけの話だ。

以上である。

ではでは。

えんどう

▶︎ おまけ

▷ 紹介したいnote

育児の大変さは見た目にはわからない
そう、見た目からはわからない。だからこそ公園にいる家族がすべて幸福そうに見えるのだが、夫婦の表情を追いかけてみるとそうではないであろうと察することもないことはない。

【育児】私が思う育児で一番大変な時期
一人目を出産するとき、妻さんは死にかけた。大量の出血があり、みるみる間に顔が青くなり血圧も低くなっていくだけでなく、脈拍も小さく弱くなっていくことを目の当たりにするのは本当にしんどかった。それ以降も一人目は何もかもがはじめてだったこともありしんどかったのは確かだ。

家事育児と仕事、どっちが大変?
どっちも大変だ。どっちも。そして、どっちもうまくできているとは思えないし、それに苦しくなるのだ。ただ、仕事で「自分しかできないこと」があるのだとしたら、子どもとの生活は「誰でもない自分にしかできないこと」であるといえる。さて、どちらが重たいのだろうか。

▷ 紹介したい関連書籍

「子供を殺してください」という親たち
少なくとも現実的に存在する人たちがいることを把握するのに活字で読むよりも敷居が低く、受け入れやすいといった意味でこちらを紹介したい。ノンフィクションなので、読む人の心情を抉ってしまうような内容も含まれるが、少なくともぼくは読んでよかったと思っている。


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