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学校で教えてくれない”仕事”のこと

はじめに

はじめましての方から頻繁に起こしいただく方まで、ようこそ。
どうも、ゑんどう @ryosuke_endo です。

「学校で教わったことの中で『大きいなぁ』とか『大事だなぁ』と思えることを3つ挙げてください」

こう聞かれたら、自分がなんて答えるのかを考えてみたんですが、サッパリ浮かんできません。一生懸命にひねり出したことでいうと以下の3つぐらい。

  • 定期試験という天国と地獄

  • 片思いの楽しさと切なさ

  • 人間関係におけるヒエラルキー

って書いてみたものの、これ、学校って「環境」で教わったことであって、学校って機関から教わったことでも何でもない…。

じゃ、学校って教育機関で何を教わったのだろうかって考えだしたのですが、サッパリ浮かんでこないんですよね。浮かんでくるのは恩師を含めた数名の個人が投げかけてくれた言葉や態度。

他にもあるのでしょうし、別に学校を否定したいわけではありません。(制度だとか学校単位でどうしようもない問題には文句を言いたい部分はあります。不登校とか。)

教育機関で務められている方々には尊重する感情しかありませんし、これからも子どもたちに向けて真摯に向き合っていただきたいと真剣に考えております。

でも、学校では「仕事」について教えてくれないよなぁ…。仕事ってのは何をすることなんだっけっていう、物理学的な「仕事」ではなく、「身銭を稼ぐために行う仕事」について考えてみます。

仕事で得られること

学校では仕事をすることで得られることを教えてもらったことがありません。当然ですよね。学校の先生方は民間事業者で働いたことがない場合、絶対に経験したことがないのですから。

ただ、教員も「仕事」です。

その意味では以下のことぐらいは教えてもらえそうなものですが、いかがでしょう。

身銭を稼ぐ

何にも替えることができない仕事の目的といってもいいかもしれません。人の幸福はお金で買えませんが、お金がないことで幸福を感じづらくなることはあるでしょう。

ぼくたちは日々、生活をしなければなりません。生活をするためには衣食住を担保しなければならず、衣食住を担保するためにはお金が必要です。

『すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』

これは日本国憲法第25条第一項の条文ですが、この権利を行使し、生活をアップグレードしていくのかどうかは身銭を稼ぐという意味で仕事が大きく関わってきます。

答えがない中で模索すること

仕事には答えがありません。正解と呼べる絶対的な解答なんてものがないのです。あるのは、その時、状況、環境によって生じる「受諾」でしかなく、それは1/3は割り切れないような心地悪さもあったりします。

一見すると、社長や部長などの上司と呼称される人たちが答えを持っていそうに見えますが、彼らも絶対的な答えなんてものを持っていません。

上司にあるのは、過去に積み上げてきた数値と実績、そこに感情的な意味での経験をかけ合わせた「最適解のようなもの」でしかなく、客と呼ばれる存在にとって何がいいかを模索することが仕事なのです。

成長と実感を得る

人間には初めての機会がたくさんあります。生まれたばかりの赤ん坊は歩くことは愚か、立ち上がることすらできませんが、時を重ね、身体的な前提条件を獲得することでできることを増やしていきます。

仕事をする人たちも同様で、できなかったことをできるようになる機会や環境が多く存在します。しかも、業種や職種を変えたら一から前提条件が一気に変わるため、身につけ直しになります。

そこに適応しながら成果や実績を積み上げることで成長や、その実感を得ることにつながっていくのです。

貢献と絶望の中で揺れ動く感情

会社と呼ばれる組織には労働基準法と呼ばれるものをはじめとした法律が適用されます。各会社ごとに、それに照らした就業規則が設けられ、さらに人事制度などが制定されます。

そこには会社にどれだけ貢献できたのかを推し量るための評価が入っており、定性的なのか定量的なのかは各社で比重が異なりますが、一定の基準に照らして仕事の重み付けがなされるわけです。

評価がよければ貢献を実感し喜び勇むことができるでしょうが、それが敵わなければ絶望に伏すことにもなりかねません。そんな感情の揺れ動きを体感することも仕事の効用だったりします。

仲間の種類に気づくこと

仕事、もとい職場と呼ばれる環境では、友人や知人といった仲間ではない交友関係ができあがります。上司や同僚といった、いわゆる仕事仲間と呼ばれるものです。

友人や知人の仲間と上司や同僚といった仕事仲間の間には「仕事」が挟まっており、これを挟んでいるかいないかによって何を共通言語にするのかが変わります。

ここで「あぁ、仲間ってのはどんな共通言語を持つのかによって種類が変わるのか」と気づけたりします。

仕事が増えれば、共通言語を話す間柄が増えることになりますから、沢山の仲間を持ってるように見える人は、それなりに共通言語を持ち合わせているといえるのかもしれません。

仕事の大枠

業種や職種など、仕事と呼ばれるものを区切るには何種類かありますが、大枠としては以下のようなことでまとめられるのではないでしょうか。

挨拶

いわゆる仕事をするというのは誰かが困っていることや助けてほしいことを起点にした依頼があるからこそ発生するものです。その依頼をしてくれた誰かに挨拶をすることからはじめます。

ちなみに最近は挨拶を嫌う人たちもいるそうですが、挨拶をしておいて損をすることはないので挨拶が出来るに越したことはありません。

日時設定

たとえば、掃除の仕事を頼まれたとして、現場に行くためには日時を決めなければなりません。自宅から掃除現場まで行くのに、「いつ」行けばいいのかがわからないまま過ごすことはありません。
相互に日時を照らし合わせ、いつ赴くのかを設定します。

商談(提案)

今度は営業の仕事だとしましょう。挨拶し、訪問日時を設定したら、次は商談と呼ばれるものを行います。自社の製品やサービスをお客さん候補となる人に向けて提案するのです。

提案に至るまでにはたくさん考えます。

相手が何に困っているのか。どんな課題を感じており、何を解決したいを望んでいるのか。はたまた、その人たちですら気づいていない課題や問題は何があるのか。

自社商材の持つ便益や機能、他と比較した上での優位性などを駆使し、何を解決することが出来るのか。

この2つを結びつけて提示し、受諾してもらうことが商談の場です。もちろん、お金がかかることですから論理的に進められることもありますが、感情的に決められることだってあります。

それらをひっくるめて、最適な提案とは何かを毎日考えているのが、いわゆるビジネスパーソンと呼ばれる人たちが行っていることなんですね。

見積り

無事にお客さんへの提案を終えたら今度はお金の話です。

いくら商談を前向きに終えられたとしても、金額が見合わなければどうすることもできません。

商談の場で提示してきたものがいくらなのか、いくらでどこまで出来るのか。何より、お客さんの予算における許容範囲はどこまでなのか。

そんなことも踏まえて、自社として支払ってもらいたい金額を見積り、提示するのです。

発注/受注

金額まで折り合うことができたら、提案を受けた側は発注し、発注を受けた側は受注という言葉を使い、実績として積み上げることになります。

相互にどんな内容で発注/受注したのかを明文化し、自社のデータベースに保存します。言ったいわないや頼んだ頼んでないといった忘れがちな人間の性質を踏まえた対応をするわけです。

納品

受注した側は、発注側の要望を適えるような状態の製品やサービスを納め、検品してもらいます。

きちんと納められたこと、納められた製品やサービスが適切な状態で届けられていることを発注者に認めてもらい、それがOKならば無事に納品という形で落ち着きます。

請求

無事に納められた製品やサービスの対価を支払ってもらうためには、受注側が発注側に向けて請求を起こします。

この金額は基本的に見積り金額と異なることはありません。しかし、納品までの過程で発注側から追加の要望が出たりした場合には金額が異なってしまうこともあります。

だいたい、その場合には見積り金額を訂正することがほとんどなのですが、場合によっては見積り金額は変わらぬまま、請求金額が変わることもあったりなかったり。

この請求までを終えたらお客さんとのやり取りは終わりだと思ってもいいのですが、継続的に発注してもらうための工夫を凝らしておくことも必要。

おわりに

一旦、ここまでにしてみようと思うのですが、案外、学校で教わったことのないことばかり書けた気もします。

少なくとも高等学校までの間に発注や受注などと言った言葉を使ったこともなければ使われたこともありませんので、ぼくは教えてもらった記憶がありません。

まぁ、記憶がないだけで教えてもらっていたのかもしれませんが。
ただ、中学生や高校生ぐらいになると、体感的にわかりそうなものですよね。

コンビニやスーパーなどのお店に足を運んで物品を手に取り、レジに並んで会計を済ませるってことから想像すると腹落ち感が高そうだなって思えます。

よし、終わります。

ではでは。

ゑんどう

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