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織田信長時代の家康

第百五十一回 サロン中山「歴史講座」
令和五年3月13日

瀧 義隆

令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
今回のテーマ「織田信長時代の家康」について

はじめに

永禄五年(1562)に「清洲同盟」を締結して後、家康は以後21年間にわたり、織田信長とは主従関係ではないものの、どちらかと言えば「従属(じゅうぞく)的」な関係の仲にあったのではないか?と考えられている。織田信長についての様々な書籍を参考にすると、信長の気質は「天才肌」に見られる「激情型」ともとられており、どちらかと言えば「熟考型」の家康とは、真反対な性格ではなかったか、と思慮される。

今回の「歴史講座」では、この真反対な性格の二人が同盟に従って戦いを続けていく経緯について、その概略を述べてみたい。

1.「織田信長」について

誕生・・天文三年(1534)五月十二日
没年・・天正十年(1582)五月二十九日(京都の本能寺において、明智光秀に襲撃され、自害)
父・・・織田信秀(のぶひで)
母・・・土田御前(信秀の継室で、土田政久の娘とする説もあるが、異説もある。実名は不明)
天文十五年(1546)に元服して「古渡(ふるわたり)城」に入り、「三郎信長」と称した。天文十七年(1548)か天文十八年(1549)頃に美濃国の大名の齋藤道三の娘である「濃(のう)姫」と政略結婚が交わされた。
天文二十一年(1552)三月に父の織田信秀が死去したことから家督を継いで「上総守信長(後に上総介信長)」と名乗った。弟の織田信勝との抗争があったり、家臣達の謀叛も生じたり、領国支配に幾多の試練もあったが、永禄三年(1560)五月の「桶狭間の合戦」で今川義元を討ち取ると、一躍、戦国大名の一員となって飛躍することとなった。
その後、美濃を攻略して「天下布武」のスローガンの下に、越前の朝倉氏や、信長の妹の「お市」が嫁いだ北近江の浅井氏をも滅亡させ、更に、「甲州征伐」で甲斐の武田氏を滅亡させた。
また、織田信長打倒を目論む足利幕府との対立をも打ち負かして、足利義昭を追放してしまった。天正十年(1582)四月頃には、朝廷から「太政大臣」か「関白」か、「征夷大将軍」に任ずるとの構想も囁かれていたが、同年五月二十九日、毛利氏の支配する中国地方に進軍する途中、京都に滞在した「本能寺」で、明智光秀の謀叛によって自ら「本能寺」に火を放つて、自刃してしまった。・・・・・・・・・・・資料①参照
一般的に、織田信長について、「天才肌」の「激情形」のタイプで、人質をも殺戮してしまう「非人情」・「冷酷」な人物像となっているが、京都大学卒業で著作家の百瀬明治氏は、大久保彦左衛門著の『三河物語』の「解題」の中で、

「信長、其より此方彼方押詰サせ給ふナラバ、近江之儀ハ申ニ及バズ、越前迄モ切取せ給ハンに、惣別、信長ハ「勝て鋹之緒を締メヨ」トテ、其儘、岐阜エ引入給ふ。」
と書いてあり、この史料を元に、「信長は、一見したところ、いかにも性急な人物にみえる。しかし、その実、戦いに関しては、工夫は尽くせるだけ尽くし、しかも決して無理をしないのが、信長の流儀であった。」

大久保彦左衛門忠教著『三河物語』編訳者 百瀬明治 徳間書店 1992年 159P

このような織田信長への分析を示している。

以上のような解釈を参考にすると、織田信長とは、合戦に対しては慎重に、時には大胆不敵に向き合っているものの、「本能寺」に於ける最後を見ると、「傍若無人」・「油断大敵」・「自信過剰」そのもののような人物ではなかったか?と考えられる。

2.「嫡男の結婚と家康」について

まず、史料の『徳川實紀』を見ると、

「九年十二月二十九日叙爵し給ひ三河守と稱せられ、十年信長の息女御輿入ありて信康君御婚禮行はる。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 33P

「信長の息女」・・・・・・織田信長の長女の「徳姫(とくひめ)」のことで、「岡崎殿」と称された。
「信康(のぶやす)君」・・・・家康の嫡男で、母は「築山殿」である。

この史料に示されているのは、

●松平家康は朝廷に対して、「松平」を「徳川」に改姓したい旨の願いを申し出て、永禄九年(1566)十二月十九日に、官職名の「三河守」と、「徳川」を名乗ることが許される事となった。この「徳川」の姓名は、安祥松平家の本家格の九代目の当主である事を示すものであり、三河地方の支配権を確立する為のものであった。本来は、源氏系統である新田氏の流れを汲む藤原氏の一族である事を示す「得川(とくがわ)」とするものを、家康の考えから、「徳川」と改めたのである。

●徳川家康は永禄十年(1567)五月に、嫡子の徳川信康と織田信長の長女の「徳姫・五徳(おごとく)とも言う」との婚姻を行った。信康も徳姫も共に9歳の時である。

2.「信長と家康の連合軍」

①「姉川の合戦での勝利」

元亀元年(1570)の六月二十八日に、かねてから対立していた織田信長の妹の「お市の方」の嫁ぎ先(継室)である「浅井長政」の小谷城を攻略する為に、織田氏と徳川氏の連合軍が出陣し、近江国浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町及び三田町一帯)で、浅井氏を援護する朝倉義景の連合軍と戦うこととなった。

この戦いについて、史料の一つとして『三河物語』では、

「元亀六年庚午六月廿八日ノ曙に押出給えバ、越前衆モ三万余にて押出ス、信長一万余、家康之人数三千余にて、互に押出て、北風南風、責戦処に、家康之御手より切崩シテ、追打に打取給えバ、信長之御手ハ、旗本近迄切立ラレ、各々爰ハの衆ガ打レケレ共、家康之御前が勝て奥ヱ切入給えバ、敵モ即負軍シテ、残ラズ打取給ひて、「今日之合戦ハ、家康之御手柄故、天下之誉ヲ取」ト、信長モ御感なり。」

大久保彦左衛門忠教著『三河物語』編訳者 百瀬明治 徳間書店 1992年 159~160P

「元亀(げんき)六年」・・これは、元亀元年(1570)の間違いである。
「越前衆(えちぜんしゅう)」・・ 朝倉義景の軍勢のこと。
「北風(おつつ)南風(まくつつ)」・・・「追いまくる」の意味か?
「旗本(はたもと)」・・・・大将に直属し、本陣を守る役目の武士のこと。
「御感(ぎょかん)」・・・・感じること。ほめる事の尊敬語。

以上に見られるように、「姉川の合戦」では、家康が抜群の働きをして、浅井・朝倉軍を壊滅的に打破したので、信長は感心して「天下之誉ヲ取」という褒め言葉を家康に与えている。このようにして、織田・徳川連合軍が勝利したものの、決定的な勝利とはならず、浅井・朝倉の両軍を壊滅させるのは、この合戦の三年後のことである。

②「三方原の合戦での敗戦」

織田・徳川軍も常勝軍団ではなく、元亀三年(1573)十二月二十二日に始った「三方原の合戦」では武田軍に大敗を喫している。この合戦は、京都にいる足利義昭の要請によって、武田信玄が上洛しょうとした際、その上洛を阻止しようとした、織田信長と徳川家康が連携して武田勢を攻撃した戦いであった。これを史料として『徳川實紀』で見ると、

「十二月廿二日三方が原のたヽかひ御味方利を失ひ、御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ。入道勝にのり諸手をはげましておそひ奉れば、夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに、からうじて濱松に帰りいらせ給ふ。(中略)その時敵ははやく城近く押よせたれば、早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに、 君聞召、かならず城門を閉る事あるべからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなうべし。また敵大軍なりとも、我籠る城へをし入事かなふべからずとて、門の内外に大篝を設けしめ、その後奥へわたらせ給ひ、御湯漬を三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寝ありしが、御高鼾の聲閫外えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 37P

「三方(みかた)が原」・・「味方ケ原」と書いてある史料も見られるが、現在の静岡県浜松市北区三方原町のこと。
「入道(にゅうどう)」・・武田信玄は、永禄二年(1559)二月の第三次川中島の合戦後に出家して、「徳栄軒信玄」と号するようになった。
「夏目次郎左衛門吉信(よしのぶ)」・・・松平家の譜代の家臣で、通称は「次郎左衛門」と称し、実名は「広次(ひろつぐ)である。
「大篝(おおかがり)」・・・大きな「かがり火」を焚く鉄のカゴの事や、大き「なかがり火」の事。
「御湯漬(おゆずけ)」・・・ご飯に熱い湯をかけて食べる食事法の事。

このように、家康は無謀にも武田軍に向かって戦いを挑んだが、完膚無きまで打ち負かされて「岡崎城」に逃げ帰り、「湯漬」を三杯お代わりした後に寝入った、とされている。この時の家康の大敗北を後日の教訓とする為に、家康の実像を描かせている。・・・・・資料②参照

この「三方原の合戦」の直後、武田信玄は急病(胃癌とする説もある。)の為に甲州に戻ろうとするが、その途中で死去してしまった。

③「長篠(ながしの)の合戦」

武田信玄の跡を継いだ諏訪勝頼(武田勝頼)は、父の「弔い合戦」として、天正三年(1575)五月十三日に出陣を開始し、三河国の長篠(現在の愛知県新城市)で徳川・織田軍と対峙した。この出陣について、『信長公記』には、

「五月十三日 三州長篠後詰として、信長・同嫡男菅九郎、御馬を出され、其日熱田に御陣を懸けられ、(中略)武田四郎に打向、東向に備られ、家康・滝川陣取の前に、馬防の為柵を付けさせられ、(中略)家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉大将として二千ばかり、並に信長御馬廻鉄炮五百挺(後略)」

太田牛一著『信長公記』慶長十五年(1610)頃完成 奥野高広・岩沢愿彦校注 角川書店 平成十四年 181~182P

「嫡男(ちゃくなん)菅九郎(かんくろう)」・・・織田信長の嫡男で、織田勘九郎のことで、後に織田信忠を名乗る。
「武田四郎」・・・・・・武田信玄の庶子として生れ、信玄の正嫡の武田義信が廃嫡された為に、母方の諏訪氏を継いでいたが、信玄の死後に武田氏を継承した。
「滝川」・・・・・・・・滝川一益のことで、織田氏の宿老あった。

この合戦で注目すべき事項として、織田・徳川連合軍は、武田氏の騎馬隊に対処する方策として、「馬防の為柵を付けさせ」とあるように、槍を片手に突撃してくる騎馬武者を防御する為に、「馬防柵」を設置している事にある。また、武田軍が槍や刀での闘争を主力としているのに対して、徳川軍には弓や鉄砲隊が二千、信長の陣には鉄炮五百挺を構えて武田軍を迎え撃とうとしている。武田信玄の後継者である諏訪勝頼は、信玄に仕えていた老臣達の意見を無視し、勝頼に忠実な「お気に入りの者」達の意見のみを取り入れ、旧式の武器をかざして戦う騎馬武者の戦力に頼っていた。これに対して、織田・徳川連合軍は泉州堺の鍛冶屋から取り寄せた、当時としては最新式の鉄砲を、少なくとも五百丁(一説では、三千丁とする説もある。)も取り揃えて待ち構えていたのである。従って、戦局は明らかで、鉄砲で狙撃される騎馬武者・歩兵達が続出し、武田軍の大負となって、諏訪勝頼は甲州に逃げ帰る結果となった。この戦いの後、武田氏は急速に勢力が減退し、天正十年(1582)二月二十八日の高遠城攻略から開始された織田

・徳川連合軍による「甲州征伐」によって、戦国時代の雄であった甲州の武田氏は滅亡したのである。

3.「信長の強要と家康の非劇」

天正七年(1579)?月、徳川家康の嫡子である信康は、妻の「徳姫(五徳)」の讒言(ざんげん)によって、織田信長の命により、妻の「築山殿」を殺させ、更に、信康を自害させる、という残酷な事件が起こる。この事件の概略を次に示すと、元亀元年(1570)、徳川家康が「岡崎城」から「浜松城」に移ったが、築山殿は「岡崎城」に置かれたままとなっており、家康と「築山殿」との間が不和になっていた。更に、嫡男の信康と「徳姫」との間に嫡男が生れない為、母の「築山殿」は元武田氏の家臣の娘を側室に迎えさせた事に対して、「徳姫」が怒り、「武田氏と築山殿・信康の母子が内通している。」と、「十二ケ条」からなる訴状を父の織田信長に送った。これに怒った信長は、徳川家康に築山殿・信康の母子の殺害を命じた。家康は、同年八月二十九日に築山殿を殺害させ、続いて九月十五日に嫡子の信康を自害させた。

この事件を大久保彦左衛門忠教の著した『三河物語』では、

「家康ハ、此由を堺にて聞召けれバ、早都へ御越ハならせられ給ハで、伊賀之国へかヽらせ給ひて退かせられ給ふ。然る処に、信長伊賀国を切りとらせ給ひて、撫切にして、国々へ落散りたる者迄も、引寄引寄御成敗を成レける時、三河へ落来りて家康を頼奉りたる者を、一人も御成敗なくして御扶持成レける間、国に打洩らされて有者が忝存奉りて、「此時御恩を送り申さでバ、」とて、送り奉る也。穴山梅雪ハ、家康を疑ひ奉りて、御後に下りておハしましける間、物取共が打殺す。家康へ付奉りて退き給ハヾ何の相違も有間敷に、付奉らせ給ハざるこそ不運なり。伊賀路を出させ給ひて、白子より御舟に召て大野へ上らせ給ふ由聞えて、各々御迎ひに参て岡崎へ御供申。」

大久保彦左衛門忠教著『三河物語』編訳者 百瀬明治 徳間書店 1992年 210~211P

「伊賀之国」・・・・・・三重県伊賀市
「穴山梅雪(あなやまばいせつ)」・・・・・ 別名を武田信君と称し、穴山氏の第七代当主である。武田信玄や武田勝頼に仕えたが、後に織田信長に仕えた。穴山梅雪はこの伊賀越えの途中に落武者狩り逢って命を落とした。
「白子(しろこ)」・・・・三重県藤枝市本町近辺
「大野(おおの)」・・・・愛知県新城市冨栄近辺

以上のように、大久保彦左衛門忠教著の『三河物語』では、伊賀を通って「白子」から船に乗って「大野」に上陸したとあるが、実際は、那古(現在の三重県鈴鹿市)から船に乗って、大浜(現在の愛知県碧南市)に上陸して岡崎城に帰還したのである。

まとめ

天下人に一番近かった織田信長の急死は、世の中の一大事件ではあったが、「清洲同盟」によって行動を共にしていた徳川家康にとっては、織田信長に替って、「天下取り」のビックチャンスの到来でもあった、と考えられる。「天下取り」のライバルであった、「武田信玄」や「上杉謙信」等の戦国の「巨大な雄」達は既に世を去ってしまっている。「天下取る」為には、一刻の猶予もなく、謀叛人である明智光秀を相手として、盟友である織田信長の「弔い合戦」を実行し、天下の覇権を家康の手にすることが急務であった。しかし、世の動きは別の人物の登場によって、急変していくのである。

参考資料

今回の参考資料

参考文献

次回予告

令和五年4月10日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
次回のテーマ「豊臣秀吉時代の家康」について

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