見出し画像

豊臣氏の衰退と家康の台頭

第百五十一回 サロン中山「歴史講座」
令和五年5月8日

瀧 義隆

令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
今回のテーマ「豊臣氏の衰退と家康の台頭」については

はじめに

慶長三年(1598)八月十八日に、豊臣秀吉がこの世を去ると、徳川家康には「天下取り」の最大のチャンスが再来する。本来、織田信長の急死後は天下は家康のものと目論んでいたものを、豊臣秀吉に横取りされてしまい、苦汁の中に豊臣政権を支えていたが、その秀吉が亡くなった時から、天下は家康の前に「ぶらさがって」来たのである。

そこで今回の「歴史講座」では、家康が秀吉の遺児である豊臣秀頼の勢力を衰退させて、天下を掌中に収める過程の概略を見ることとしたい。

1.「淀君と豊臣秀頼」について

豊臣秀吉が死去してから、豊臣氏の当主となったのが、豊臣秀頼であるが、この時の年齢は僅か5歳であり、当主とは名ばかりで、実質は、母の「淀君」が掌握していたのである。この項では、母の「淀君」と秀頼について見てみることとする。

①「淀君」について

誕生・・・・永禄十二年(1569)?(正確な史料がない。)
死没・・・・慶長二十年(1615)五月八日(自害)
父・・・・・浅井長政(近江浅井郡小谷城主)
母・・・・・お市(織田信長の妹)
幼名・・・・「茶々(ちゃちゃ)」
「茶々」は三人姉妹の長女で、次女は「初(はつ)」で小浜藩主の京極高次の正室、三女は「江(ごう)・お督(ごう)・江与(えよ)」で徳川秀忠の正室となる。

天正元年(1573)八月八日~
・・・織田信長による小谷城攻撃により同年九月一日落城し、父の浅井長政は自害、兄の万福丸は羽柴秀吉によって処刑された。母の「お市」と三姉妹は織田信長の岐阜城に引き取られた。
天正十年(1582)?月?日
・・・母の「お市」が織田信長の家臣であった柴田勝家と再婚した為、母と共に越前国北の庄城に移り住む。(勝家が60歳、お市の方が35歳)・・・・・・・・資料①参照
天正十一年(1583)三月十二日~
・・・羽柴秀吉の「賎ケ岳の合戦」で、柴田勝家が敗北し、同年四月十六日、母の「お市」は柴田勝家と共に北ノ庄城で自害してしまい、「茶々」達三人姉妹は羽柴秀吉に引き取られ、大坂城に住む事となったとされているが、詳細は不明である。
天正十六年(1588)頃か?
・・・豊臣秀吉の側室となる。天正十七年(1589)五月二十七日
・・・「鶴松」を出産したが、「鶴松」は天正十九年(1591)八月五日に死去してしまう。
文禄二年(1593)八月三日
「拾(ひろい)」(後の豊臣秀頼)を出産する。
慶長三年(1598)八月十八日
・・・豊臣秀吉が死去する。
慶長十九年(1614)十一月十九日
・・・「大坂冬の陣」で、徳川家康に攻撃され、講和を結ぶが、大坂城の外堀が全て埋められてしまい、「裸城(はだかじろ)」の状態となってしまう。
慶長二十年(1615)五月六日
・・・「大坂夏の陣」が始まったが、八日、徳川家康の攻撃に耐えられず、八日の午前十二時頃、自害する。

②「豊臣秀頼」について

誕生・・・・文禄二年(1593)八月三日
生れた時に「拾(ひろい)」と名付けたのは、拾われた子供は丈夫に育つ、という古来からの言い伝えによるものである。
死没・・・・慶長二十年(1615)五月八日(母の「淀君」と共に秀頼23歳で自害した。)
父・・・・・豊臣秀吉 ※秀頼の父は、豊臣秀吉ではなく、大野長治(ながはる)であるという説がある。(服部英雄著『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)
母・・・・・秀吉の側室である「淀君」
慶長元年(1596)十二月?日
「捨(すて)」を改めて「秀頼」と名乗る。
慶長三年(1598)八月十八日
・・・父の豊臣秀吉が死去する。
慶長八年(1603)?月?日
・・・徳川秀忠と正室である浅井長政の三女の「お江与・お江(ごう)」との間に生れた長女の「千姫」と結婚する。「秀頼」が10歳で「千姫」は7歳であった。「千姫」は徳川家康の孫である。
・・・・・・・・資料②参照
慶長十六年(1611)三月?日
・・・京都の二条城に於いて、徳川家康に謁見し、臣従の礼をとったか?。(臣従の礼はなかった、という説もある。)
慶長十九年(1611)七月十八日
・・・京都の「方広寺」の鐘銘事件が勃発する。(徳川家康から、寺の鐘に書いてある文言に、「家」と「康」の字を分割している事を、「家康」を呪詛するものだ、と因縁をつけられる。)
慶長十九年(1614)十月十一日
・・・「大坂冬の陣」が開始され、十一月二十日に講和の誓書が取り交わされる。
慶長二十年(1615)五月六日
・・・「大坂夏の陣」の戦闘が開始されたが、大坂方に裏切り者が多発し、六月八日、正午頃、大坂城の山里丸の蔵の中で、母の「淀君」と共に自刃する。

2.「秀吉に嘘をつく家康」

慶長三年(1598)の五月頃から、豊臣秀吉の体調が思わしくなくなり、次第に衰弱して死期を悟った秀吉は、死後に於ける幼い豊臣秀頼の事が心配となり、徳川・上杉・毛利・前田・宇喜多の五大老に、「秀頼に対する奉公と忠誠を誓約させ血判起請文」を提出させた。これを史料で見ると、

「太閤ますます 君を御威徳を感ぜられ、 君を始め前田・毛利・上杉等の人々をまねき、ちかごとたてヽ起證文かヽしめし中にも、君の御誓書は其身の棺中に納め葬るべしなど申をかる。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 61P

「太閤(たいこう)」・・・・豊臣秀吉のこと。
「御威徳(ごいとく)」・・・威厳と人徳が備わっていること。
「ちかごと」・・・・・・・「起請文」等の誓書のこと。

このように、五大老に対して、秀頼に対する忠誠を誓わせる「血判起請文」を提出させ、特に、家康の「起請文」は秀吉の棺の中に入れるように遺言をしている。これは、如何に秀吉自身の死後における家康の動向を憂慮していたかを示すものである。また、問題は、この「起請文」の宛先が豊臣秀頼ではなく、今にも死んでゆく豊臣秀吉宛であることにある。豊臣秀吉の死後において、豊臣秀頼への忠誠を誓う証拠となるものが存在しなくなるもので、これは、豊臣秀吉にとっての大失敗だったのではなかろうか。

徳川家康にとっては、「秀吉には誓ったけれど、その誓った相手はこの世に存在せず、豊臣秀頼に誓ったわけではない。」との家康の言い分となり、その後の家康の行動は、結果として、秀吉に対して「大嘘」をつく事となっていくのである。

以上の事から、豊臣秀吉の死後に於ける徳川家康の豊臣氏打倒の行動は激烈なものであった。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって鮮明となった、豊臣氏家臣達の分断を巧妙に利用して、「武断(ぶだん)派」の加藤清正や福島正則達と「文治(ぶんち)派」の石田三成や小西行長達が対立し、「武断派」達は徳川家康を頼りとし、家康は「武断派」を助長して対立を激化させたのである。

「武断派」・・・・・武力をもって政治を行なおうとする武士団。
どちらかと言えば、力だけに頼る単純な考えの持ち主の集団である。
「文治派」・・・・武力に頼らず、法令・教化等で政治を行おうとする立場の武士団。何事も冷静に物事を処理し、頭脳的に事務処理をしてしまおうとする集団である。

このような豊臣家内の内部抗争に意味を無くした五大老の一人である上杉景勝が会津に帰国してしまった。この機会を徳川家康は見逃さず、「会津征伐」と称して、豊臣家の軍資金を得た上で、家康は大坂を「わざと」離れて隙(すき)を与え、「文治派」の大名に反家康の挙兵を促したのである。

3.「豊臣家を衰退させる家康」

①「関ヶ原の戦い」

家康の誘いにまんまと乗ってしまった石田三成や大谷吉継・小西行長達は、慶長五年(1600)九月十五日、毛利輝元を大坂方の総大将にして、大坂城の留守番に定め、徳川方の待つ「関ヶ原」に出陣し、現在の時間で、午前7時頃から戦いが始まったものの、小早川秀秋の裏切りにより、午後2時頃には西軍の大敗北となってしまった。

この合戦について、『三河物語』では、

「敵前反転・家康の英断 然間、会津之御陣之御やめ成レて、上方へ切って上せられんと仰ラレける処に、(中略)同十五日に合戦を成レて、金吾中納言裏切をして、切崩させ給ひて、大谷刑部少輔をはじめとし、残ラズ追打に打取せ給ふ。佐和山之城を乗崩して、火をかけて治部少輔が女子・眷族一人も残サズ、焼殺す。石田治部・安国寺・小西摂津守両三人は生取て、京・大坂・堺を引渡して、後にハ三条河原にて、青屋が手に渡りて頸を三条の橋之詰にかけられたり。」

大久保彦左衛門忠教著『三河物語』 徳間書店 1992年 158~159P

「会津之御陣」・・・・・会津の領主の上杉景勝が勝手に帰国して防備を進めている、と言いがかりをつけて、家康は小山まで軍を進めた。これは、石田三成を誘い出す為の方策である。
「金吾中納言」・・・・・・豊臣秀吉の甥にあたり、豊臣政権下では重きをなしていたが、関ヶ原の合戦では、家康の誘いに乗ってしまい、西軍を裏切って家康側に加勢し、これにより西軍は大敗となる。
「佐和山之城」・・・・・・石田三成が天正十九年(1591)に入城し、文禄四年(1595)七月に大改修した城である。
「石田治部」・・・・・・・石田三成のことで、「治部」とは「治部省」のことで、訴訟等を扱う役所のことであるが、この時代は、単なる官職名であった。
「安国寺」・・・・・・・・安国寺恵瓊(えけい)のことで、臨済宗の僧侶である。毛利氏に仕えて外交を担当していた。後に、豊臣秀吉に信任されて伊予6万石の大名になった。
「小西摂津守」・・・・・・小西行長のことで、キリシタン大名の一人である。秀吉から肥後宇土城の城主に任じられた。
「青屋(あおや)」・・・・・中世・近世にかけて、賎民とされる身分の者で、牢屋の監視や清掃をしていた。

この史料に見られる通り、豊臣氏家臣団を二分割する事に成功し、且つ、この合戦の結果、一方の西軍に加担した大名集団は、廃絶の憂き目を見ることとなった。この「関ヶ原の合戦」で敗北した西軍90人の大名達は、家康によって所領を全て没収された。

また、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に、毛利輝元は中国地方全域の120万石から周防・長門二カ国29万8千石に減封されたのである。徳川家康に加担し勝利を得た東軍の大名達には所領加増を行うが、この加増した領地の殆どが、西軍に加わった大名達の領地ばかりではなく、豊臣氏の220万石の領地を三分の一以下に減少し、その分をも与えてしまったのである。この時点で豊臣氏を支えていた家臣としては、家老の片桐且元
(後に追放される。)や、その後を継いだ大野長治や、織田信長の十番目の弟になる織田有楽斎(織田長益)等が仕えていた。

以上をまとめると、
●秀吉の子飼の家臣達の分断を増長させて、対立構造を明確にさせた。(石田三成・小西行長達 対 加藤清正・福島正則達)
●関ヶ原の合戦で石田・小西達一派を滅亡させ、豊臣氏の勢力を半減させて、勝ち残った加藤清正・福島正則達の所領を加増することで、家康に従属的な大名にした。
●豊臣氏の220万石だった領地を65万石に減少し、天下の支配者から、単なる一大名に転落させた。

以上のような状況に豊臣氏を追い込み、家康自身は、慶長八年(1603)二月十二日、後陽成天皇から「征夷大将軍」に任じられ、それまで支配者であった豊臣氏を支配下に置く、「天下人」となったのである。これを史料で見ると、

「将軍家の威徳年を追て盛大になり、ことに 将軍の重職の宣下ありて、諸国の闕地はことごとく一門譜第の人々を封ぜられ、天下の諸大名はみな妻子を江戸に出し置て其身年々参勤す。これおもふに天下は終に、徳川家の天下となりぬ。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 85P

「威徳(いとく)」・・・・人を自然に従わせる威厳と人徳があること。
「宣下(せんげ)」・・・・天皇の命令を伝える公文書を公布すること。
「闕地(けっち)」・・・・ありあまったような領地。
「一門譜第(いちもんふだい)」・・・・徳川家の一族関係者と従来から徳川家に仕える家臣達。
「参勤(さんきん)」・・・出仕して主君に謁見すること。江戸の将軍に拝謁すること。同年の三月二十四日、家康が「江戸幕府」を開設すると、全国の諸大名に対して、大名の正室と子供を「人質」として江戸に住まわせる事を命じた。また、同年の七月に、豊臣秀頼と家康の孫の「千姫」との婚姻が行われた。

しかし、豊臣氏は、天下が家康の手に渡った事を認めず、次に示されるような行動に移っている。

「さりながら故太閤数年来恩顧愛育せられ、身をもおこしたる大小名、いかでその深恩を忘却し、豊臣家に對して二心をいだかば、天地神明の冥罰を蒙らざるべきと會議して、故太閤恩顧の大小名を城中に會集し、今より後秀頼公に對し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ血誓せしむ。この事福島左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豊臣氏滅亡の兆とぞしられける。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 85P

「恩顧(おんこ)」・・・・なさけをかける事。
「愛育(あいいく)」・・・かわいがって育てる事。
「冥罰(みょうばつ)」・・神仏が人知れずくだす罰の事。
「盟書(めいしょ)」・・・連名で書き連ねる事。
「血誓(けっせい)」・・・血で書いた誓約書の事。

上記の史料に見られるように、豊臣氏の者達は、秀吉からの「恩」を振りかざして、秀頼への忠臣たることを血で書いた誓約書を強要しようとしているのである。この事が、豊臣氏にとって、かえって豊臣氏滅亡への方向へと進展していくのである。

以上のように、徳川家康は、豊臣秀吉死後の豊臣氏家臣団の内部分裂を巧妙に利用し、「秀頼に対する奉公と忠誠を誓約」を全く無視して豊臣氏の衰退を画策しているのである。

まとめ

「関ケ原の合戦」の時に、淀君が、西軍の先頭に豊臣秀頼を立てていたら、家康に加勢していた秀吉の子飼である、加藤清正や福島正則等の武将達は秀頼の居る西軍に攻撃する事が出来ず、東軍の敗北は明白となり、徳川家康の「天下取り」の快挙はなかったものと考えられる。母としての淀君は、秀頼を戦場に出せず、それが豊臣氏滅亡の遠因ともなったのである。

参考資料

織田信長の妹、お市の方 資料1
豊臣秀吉の側室(淀殿) 資料2

参考文献

次回予告

令和五年6月5日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
次回のテーマ「江戸幕府の成立」について

『大乱 関ヶ原』が面白い!

ここからは、管理人であり、上記までの瀧さんとは違う人間の蛇足になります。漫画のセンゴクシリーズでお馴染みの宮下先生の最新作品『大乱 関ヶ原』が非常に濃密な作品で、ハッキリ言って面白いです。興味のある方は以下からどうぞ。

1059万部突破の大長編歴史絵巻『センゴク』に続く新たなる’戦国’!

なぜ’関ヶ原の戦い’は起こってしまったのか?

豊臣秀吉が遺した負の遺産「朝鮮出兵」の後始末により勃発する「大乱」の危機。五大老筆頭・徳川家康も五奉行筆頭・石田三成も、乱世の再来を阻止しようと各々の立場で奔走する。しかし、これがやがて天下を二分する「大乱」へと繋がっていく…。大ヒット作『センゴク』の宮下英樹が満を持して贈る、戦国最大の「政治の戦い」を描く荘厳なる歴史大河ロマン!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?