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幼年期の徳川家康

第百四十九回 サロン中山「歴史講座」
令和五年1月9日
瀧 義隆

令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
今回のテーマ「幼年期の家康」について

はじめに

 NHKの「大河ドラマ」も、今年で60回目を迎える。昭和五十八年(1963)の第1回は、井伊直弼を描いた「花の生涯」で、それ以後60回もの長期にわたり大河ドラマが継続されている。過去60回の「大河ドラマ」の内、徳川家康が取り上げられたのは、昭和五十八年(1983)に滝田 栄が主演した第21回の「徳川家康」と、平成十二年(2000)に津川雅彦が演じた「葵 徳川三代」である。その間、「織田信長」や「豊臣秀吉」等がドラマ化される時には、必ず徳川家康も登場するものの、ドラマの中心人物とはなってはいない。

 今回の「どうする家康」は、「家康」そのものであり、戦国時代を苦悩しながら「したたか」に生き抜いて行く「家康」そのものを、脚本家の古沢良太氏が描き出そうとするものである。今までになかった「徳川家康」の物語に期待したい。

1.「松平氏と徳川氏」について

 ①「松平氏」

本来の松平家は、四代松平親忠の嫡男である、松平親長の流れとなる「岩津松平家」であって、三河額田郡岩津(愛知県岡崎市岩津町)を領していた家柄で、京都御所の「政所伊勢氏」に仕えており、松平家としては、惣領家(家名を継ぐべき家のことで、跡とリの家のこと。)となる。この他に十八の松平があると伝えられている。

●十八松平(十四松平家を唱える説もある。)

  • 竹谷(たけのや)松平家・・・・宝飯(ほい)郡・蒲郡市

  • 形原(かたのはら)松平家・・・宝飯(ほい)郡・蒲郡市

  • 大草(おおくさ)松平家・・・・渥美郡・田原町

  • 五井(ごい)松平家・・・・・・宝飯(ほい)郡・蒲郡市

  • 深溝(ふこうず・ふこうぞ)松平家・・・・額田郡・幸田(こうた)町

  • 能見(のみ)松平家・・・・・・額田郡・岡崎市

  • 長沢(ながさわ)松平家・・・・宝飯(ほい)郡・音羽町

  • 大給(おぎゅう)松平家・・・・加茂郡・豊田市

  • 滝脇(たきわき)松平家・・・・加茂郡・豊田市

  • 福釜(ふかま)松平家・・・・・碧海(へきかい)郡・安城市

  • 桜井(さくらい)松平家・・・・碧海(へきかい)郡・安城市

  • 東条(とうじょう)松平家・・・宝飯(ほい)郡?

  • 藤井(ふじい)松平家・・・・・碧海(へきかい)郡・安城市

  • 三木(みつぎ)松平家・・・・・碧海(へきかい)郡・岡崎市

  • 西福釜(にしふかま)松平家・・碧海(へきかい)郡・安城市

  • 鵜殿福釜(うどのふかま)松平家・・・・・額田郡・岡崎市

  • 宮石(みやいし)松平家・・・・額田郡・岡崎市

  • 久松(ひさまつ)松平家・・・・尾張国知多郡阿久居

②「徳川氏」

「徳川氏」の発祥の地について調べてみると、平安時代の末期に、平清盛が全盛期となって「平家にあらずんば人にあらず。」と言われるような時期の、仁安(じんあん)三年(1168)の頃、新田義重は、上野国新田郡世良田荘徳川郷(群馬県太田市尾島町)に開拓地を開き、その地を四男の新田義季(よしすけ)に譲り、義季はこの徳川郷の「徳川」を苗字として、徳川義季と名乗ることにしたのが、「徳川氏」の始まりとされている。この後、徳川義季の子孫である徳川親氏(ちかうじ)は、諸国を放浪した後、三河国の松平郷(愛知県豊田市)に住み着いたことから、「松平」を苗字として「松平親氏」と名乗ることとした。これ以後、松平家康まで継続して「松平」姓を名乗っていたが、家康は永禄九年(1566)に、この「松平」の姓を捨てて、「徳川」の姓に戻している。これを史料で見ると、

「九年十二月廿十九日叙爵し給ひ三河守と稱せられ、(後略)」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀』吉川弘文館 平成十年 33P

これは、松平家康が、時の正親町(おおぎまち)天皇に上奏して、「三河守」の官職名を拝受したことを示しているが、単に職名のみならず、松平家の格式を世に示す重要な意味もあって、官職名と共に「松平」から「徳川」への「改姓」も願い出て許されているのである。

つづいて、『姓氏家系大辞典』で「徳川」を調べると、「松平廣忠の子家康に至り、永禄九年十二月、奉請して先祖の家号を採り、徳川と改む。」太田 亮著『姓氏家系大辞典 第二巻』昭和五十一年 3932~3933P

当然ながら、上奏して官職名と改姓を許してもらうには、その対価として朝廷に対してそれ相応の金品を献上していることは、充分に想定されるものの、それについての記述は全くなされていない。

いずれにしても、松平家康が正式に「徳川家康」を名乗るようになったのは、永禄九年(1566)の十二月頃からであったのである。

2.「家康の誕生と幼年期」

この項では、家康の誕生と幼年期につて、その詳細を探ってみると、天文十一年(1543)十二月二十六日に誕生
父・・・岡崎城主 松平廣忠
母・・・お(於)大の方【緒川(おがわ)城主 水野忠政の娘】・・・・・・・・・・資料①参照
幼名・・竹千代 天文十四年(1546)頃?・・水野忠政が亡くなって、その跡を継いだ水野信元(お大の兄)が尾張国の織田氏と同盟した為に、今川氏に庇護されていた松平廣忠はやむなく妻の「お大の方」を離縁してしまった。家康は、3歳にして母と生き別れになってしまった。

天文十六年(1547)八月二日・・家康が6歳になった時、今川方への人質として駿府に送られることになっていたが、駿府への護送の途中で田原城に立ち寄った際、義母の父である戸田康光の裏切りで、尾張国の織田信秀の下に送られてしまった。家康は、ここで2年間、織田家の家臣である加藤順盛(よりもり)の屋敷に入れられた。

これを史料で見ると、
「ここに田原の戸田弾正少弻康光は 廣忠卿今の北の方の御父なれば、此御ゆかりをもて、陸地は敵地多し。船にて我領地より送り申さんと約し、西郡より吉田へ入らせ給ふ所を、康光は其子五郎政直とこヽろをあはせ、御供の人々をいつはりたばかり、船にのせて尾州熱田にをくり、織田信秀に渡しければ、信秀悦び大方ならず、熱田の加藤圖書順盛がもとへ預置しぞ。(後略)」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 25~26P

「戸田康光」・・・三河国田原城主で、近隣の松平氏や今川氏等と領地争いを重ねており、最後には今川氏によって滅亡された。
「弾正少弻(だんじょうしょうひつ)」・・律令時代に定められた官職名で、本来は都の監察・治安維持を担当する部局である弾正台の称号である。
「今の北の方」・・松平廣忠が正室の「お大の方」と離別した後、継室として戸田弾正少弻康光の娘である「真喜姫(まきひめ)」と再婚した。
「五郎政直(ごろうまさなお)」・・・戸田康光の嫡男の戸田尭光(あきみつ)のことか?尭光は、今川義元に田原城が攻め込まれ時に、父の戸田康光と共に討死した。
「織田信秀(おだのぶひで)」・・・尾張国守護代織田信定の嫡男で、尾張の西南部の勝幡(しょばた)城を居城としていた。織田信長の父親である。

天文十八年(1549)三月六日・・・父の松平廣忠が死去。
弘治二年(1556)一月十五日・・・十五歳で元服して、二郎三郎元信と改名する。

これを史料で見ると、
「竹千代君御とし十五にて今川大輔義元がもとにおわしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかまつる。關口刑部少輔親永(一本義廣に作る)理髪し奉る。義元一字をまいらせ。 二郎三郎元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは此御事なり。」『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』吉川弘文館 平成十年 29P
「首服(しゅふく)を加へ」・・・・・「元服(げんぷく)」と同じ意味。
「加冠(かかん)」・・・・元服して頭部に「冠(かんむり)」を着けること。
「關口刑部少輔(ぎょうぶのしょう)親永」・・・・駿河国の今川氏の重臣であり、駿河持船(もちぶね)城主である。
「一本義廣に作る」・・・「一説によれば、關口親永は『親永』ではなく、『義廣』である。」という意味である。
「築山殿(つきやまどの)」・・・・・築山殿は、今川義元の姪にあたり、關口親永の娘であるが、名前は不明である。家康としては最初の正室である。

★「元服」について
以上の史料のように、松平家康は弘治二年(1556)に「元服」しているが、この「元服」とは何時の何時代頃から行われるようになったのか?を調べてみると、我国において始めて「元服」としての儀式は、聖徳太子の頃(西暦の580年頃か?)には行われていた、とされているものの明確ではない。また、天武朝(西暦の680年頃)に結髪加冠の制度が定められていたとされているが、正確には不明である。記録としては、聖武天皇が和銅七年(714)に元服の儀式をしたとする記事があり、これが我国の歴史上「元服」についての初見とされている。最初は、宮廷における皇族達の儀式であったものが、平安時代から鎌倉時代に入る頃には、庶民も「烏帽子(えぼし)」を被るようになり、この頃から「元服」の儀式も一般的となってくる。

武士社会においては、数えの12~16歳になった時期に、「烏帽子親」と称される役目の者から髷(まげ)を調えて貰い、更に烏帽子を頭に載せて貰うのである。これを「加冠(かかん)」と言う。・・・・・・・・資料②参照

また、幼名を改めて「烏帽子親」から「諱(いみな)」を貰うのである。「諱」とは、貴人の名前から、その一字を貰うことを言う。

以上に見られるように、家康の幼年期は、前途洋洋としたものではなく、早くに母と生き別れとなったり、父が早世したり、人質となったり、と苦難の日々を過ごしていたのである。

資料


徳川家康の母親(お大の方)
元服の儀式

まとめ

「三つ子の魂百まで」という「ことわざ」がある。これは、3歳頃までに人格や性格が形成されて、それは100歳まで変わらない、という意味である。徳川家康は、僅か6歳にして人質に出され、周囲が全て敵だらけ、明日の命も保証されておらず、「周囲の監視が厳しい中に成育する過酷な環境にあった。」と考えられる。このように、恐怖の毎日を過ごすと共に、不安感に満ちた幼児期であって、その生活の中から自然の内に忍耐力をも身に付けさせられた日々であったものと考えられる。

参考文献

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次回予告
令和五年2月13日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の実像」
次回のテーマ「戦国大名へ自立した家康」について

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