一龍

映像の外のドキュメンタリーを求めて。ドキュ・メメントを作った話。

ドキュメンタリーという仕事がある。
他者を見つめ、聞きとりづらい声を拾い、人生を映像に凝縮して運ぶ。こんな仕事が社会にあるという不思議に戸惑い、朝、目が覚めたらすっかりなくなっているんじゃないかと思うことがよくある。
ある国で十代の娘を撮影した。映像を見た彼女は「この私は、本当の私じゃない」と言った。ある国で革命が起きた。催涙弾の煙る中、学生たちは「私たちのことを世界中に伝えてくれ」と言った。ある晩、年配の友は「ごめんな、俺より辛い人が出てくるからドキュメンタリー観れないよ」と呟いた。またある晩、戦場で片目を失ったカメラマンはこの仕事をする理由について「言葉は嘘だから」と言った。ドキュメンタリーは人間という生き物を克明に映し出す。僕はこの仕事と共に人に求められ、拒まれる。
自殺する人の心の中を知りたいと思い、未遂した女性の部屋に通った時期があった。その日、彼女は気が立っていて死にたがっているように見えた。
唐突に彼女に問われた。
「あなたは目の前の人が死ぬという時にカメラを置いて助けますか?」
「助けるよ」
と返事をすると全身に不快感が走った。
バングラデシュの貧しい村で心臓病の被写体が死にかけた時、カメラを置いて病院に連れて行ったことがあったけれど、本当に気持ちが悪かった。
撮影という目的を失い、脈絡もなく世界のどこかに居てしまうのは恐怖だった。
僕は彼女に見透かされていた。
<カメラを置いたら、あなたは本当にこの現実に参加していますか?>と。
それから僕は映像の外へ出ることを試みた。作り手の仲間たちと共にドキュメンタリーという概念を拡張させ、社会とつなぎ直そうとした。生活者の中に入って、この仕事を拒み、求め、問う声に答え、自分の役割を直に確かめてみたかった。僕らの試みは『ドキュメメント』という祭典となって世に問われた。

その声を誰かにも聞いて欲しかった

きっかけは2015年に作った一本のテレビドキュメンタリーだった。
東日本大震災の最中、沿岸に住む耳の聴こえない人々がどう避難したのかを手話で語る証言記録を作っていた。音のない世界で生きる人たちの輪に入ると、健聴者の僕の方がマイノリティーになった気がした。編集が終わる頃、プロデューサーらは「視聴者は耳の聞こえるマジョリティーで、手話の沈黙に耐えられないから音声吹き替えにしよう」と言った。僕は「手話は彼らの言語だから、吹き替えで沈黙を消すのは違う」と反論したが通じなかった。映像が誰かに<わかりやすさ>を提供する一方で誰かの現実が見えなくなる。なにより手話の沈黙はあの日にも在り、それと向き合うことは企画の存在意義だ。なぜありのままの現実を運べないのか。同じ頃、同僚のディレクター内山直樹が一年がかりで中国残留孤児の番組を作っていたが、編集室で主人公のシーンが大幅にカットされた。理由は、主人公が前科者だったからだ。「犯罪者を主役にはできない」と判断された。内山さんは「犯罪に手を染めるほどの苦悩の中に中国残留孤児の悲哀が凝縮されている。俺はそれを知りたいだけだ」と言った。なぜありのままの現実を運べないのか。被写体は彼らだけの声で話している。大文字の歴史からはこぼれ落ちる個々の生の歴史を。沈黙や身振りも含めて。その声を僕はそのまま運ぶから、誰かにも聞いて欲しかった。

家庭用プロジェクターのワールドプレミア

自分たちで自由に発信できる場を作るほかなかった。
編集で落とされた映像を流すリベンジ上映会をしようと僕らはあちこちのディレクターに呼びかけた。場所は秋葉原の起業家がオフィスを無償で使わせてくれた。MacBookと映像だけを準備すると、60ほどの人が集まってきた。学生やサラリーマン、音楽家や通訳者、普段接することのない人たちが入り乱れる中、僕は手話の震災証言を再編集して登壇した。取材を受けてくれた人たちの音のない世界を上映できたことで少し報われた気がした。あるディレクターは長年自主で撮りためた素材をまとめ、緊張しながら上映した。家庭用プロジェクターであっても作り手にとってはワールドプレミアだった。次第に観客が前に出てYOUTUBEを開き、自分の作った音楽やら映像を我先にと発表し出した。俺を見ろ、作ったものを見ろ、と競い合い、場に熱気が生まれた。登壇して勝手に映像を流して勝手に話す。TVやPCの向こうの見えない数十万人に届けるよりも、目の前の数十人に全力でぶつかって一喜一憂する方が、生きている実感があった。
それから僕らはドキュメンタリーの登壇に夢中になった。

映像以前、物語以前。

このころ僕らは一つの言葉に刺激されていた。
「未来のドキュメンタリストは社会起業家であれ」。
長年、日本のドキュメンタリー界を支えてきた先輩がくれた言葉だった。ドキュメンタリストが社会の中でどんな役割を持つのか、無名の僕らなりに試みて良いのだとはじめて思えた。
次のテーマを「ドキュメンタリーをぶっ壊す」に決めて、池袋の廃校の図書館で登壇した。ドキュメンタリーが<理屈っぽくて退屈で暗い>というイメージをぶっ壊して、概念を拡張しようと意気込んだ。当日、会場に着くと近所の飲食店の方が「ドキュメンタリーおにぎり弁当」を並べていた。拡張しすぎてもはやよくわからなかったが、突き抜けていて気持ち良かった。登壇者は、ドキュメンタリーに関係ない人を呼んだ。絵本作家やヨガのインストラクターらに「私のドキュメンタリー」というワードを渡して登壇してもらった。絵本作家は自分が子供の頃に否定の言葉を受けた経験を『子供を効果的に壊す方法』という絵本にし、朗読した。当事者の覚悟に支えられた語りに映像はいらないとすら思った。映像以前に物語があり、物語以前に人間がいると気付いた。いつしか会場は100人ほどの観客で埋まり、人間を発見する好奇心に満ちていくようだった。僕は、観客全員がドキュメンタリーを作る側になって見ることに心底貪欲になればいいと願った。
最後に内山さんが宣言した。「残りの人生をかけて、ドキュメンタリーをカルチャーにします」。
僕らの中でもうドキュメンタリーは映像だけを指していなかった。

最初の人たちと同じように

「俺も登壇したい」と同年代の作り手たちが集まってきた。映画・テレビ・MV、フリーに社員。立場は違えども新しいステージを求めて足掻いている連中だった。同じ頃、取材先でドキュメンタリー好きの夫婦と会った。状況を話すと北品川の古民家を月一回無償で貸してくれた。僕らは畳にあぐらで作りかけの映像を見せ合った。オウム・大麻・パチプロ・ビジネスマンラップ・チャイニーズマフィア…蓋を開ければ、お茶の間とは無縁な企画を自主で撮っている仲間だった。金が無くても直感に従って即撮影する制作スタイルに、変化の激しい社会の突端で生き残るポテンシャルを感じた。
この集まりをBUGと名付けた。国家や社会がどんなプログラムを敷こうが人間はBUGを起こし進化する、という意味を込めた。ミッションは「ドキュメンタリーをカルチャーにする」、「作り手自らが環境を作る」のふたつに定めた。あと30年この仕事を続けるために自分たちに課した条件でもあった。
BUGで居酒屋を借りて登壇した。150人の観客に混じって、人型の黒いシルエットが林立する間からスクリーンの光を見ながらぼんやり考えた。
作り手自らが撮影から上映までを行うのは、実は原初的なことだ。
120年以上前、リュミエール兄弟がシネマトグラフを普及させようと世界中でキャンペーンを張った時、各国に派遣されたカメラマンは一人で撮影し、上映した。その時、観客は揺れる樹を見て心奪われたという。
全てが分業化された後に生まれた僕らは頼まれてもいない映像を作り、最初の人たちと同じように自ら上映している。観客はもう揺れる樹に心奪われるほどピュアではないけれど、描かれているテーマが自分事であればあるほど食い入るように真剣に見ている気がした。そこには生きるのに必要な共感が含まれているからだと僕は思った。だとすれば登壇する人が話下手でも共感が起こればいいし、プロジェクトはこれからどうなるかわからないという余白があった方が、観客を参加者に変えていけるのではないか。登壇に感動したら本人に直接話しにいけばいい。フィクションなら登場人物は架空だけれど、ドキュメンタリーの登場人物は映像が終わった後、会える。
終わってみると会場のあちこちで登壇者と議論する人の輪ができた。
最終的には焚き火にまで戻るのではないかと思うほどにシンプルで原初的な語りの場を作ることで、僕らは観客の経験を肌で感じるようになり、社会とドキュメンタリーとの接点を具体的に考えるようになった。

ドキュ・メメント 〜生身の人間が、一番面白い。

それから地元の人らと交流を重ね、映画館のない品川宿でドキュメンタリーの祭典をやることになった。BUGに共感してくれたデザイナーが、ドキュメンタリーとメメント・モリ(死を想え)を合わせて<ドキュメメント>と名付けてくれた。
街の人の善意で古民家・寺・居酒屋・カフェを2日間借り、登壇者を24人集めた。結果、およそ600人が訪れ、把握できないくらい出会いやドラマが生まれた。登壇者の人生を少しだけ加速させる役割は果たせたかなと思う。
ドキュメメントを終えて、根本的に考え方を変えたのは、映像と人間の関係についてだった。映像はその被写体が同じ空間に存在することによって相対化され、時に弱まる。生身の人間こそが映像にとっての最大の批評性だったのだ。逆に映像が登壇者の語りに変化を促して、とても深い声が聞ける場が短時間で現れることもあった。僕らは、登壇者のキャスティングに始まり、語りを引き出す演出、映像、観客から沸き起こる言論を含めたドキュメメント自体をドキュメンタリーの表現と考えるようになった。
そして登壇者の語りにその場にいる全員の身体が応答する一期一会の経験に最大の価値を見出した。
それは人間を信じることと同じ感覚だった。

ドキュメンタリーとは何をすることなのか。
僕にわかっているのは、人生には他者の現実に立ち合わなければならない瞬間が来るということだ。誰かと会い、本音を語り、共感し、求め、ぶつかり、怒りや悲しみに触れ、運命に揺さぶられる。
ドキュメンタリーはその瞬間を在らしめようとする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?