Harry Stack Sullivanについて、精神科の教科書のどこにも解説はない。

Harry Stack Sullivanについて、精神科の教科書のどこにも解説はない。

Harry Stack Sullivan
https://www.google.com/search?q=Harry+Stack+Sullivan&rlz=1C1JCYX_jaJP1058JP1058&oq=Harry+Stack+Sullivan&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyBggAEEUYOTIGCAEQABgeMgYIAhAAGB4yBggDEAAYHjIGCAQQABgeMgYIBRAAGB4yBggGEAAYHjIGCAcQABgeMgYICBAAGB4yBggJEAAYHtIBBzU0NGowajeoAgCwAgA&sourceid=chrome&ie=UTF-8
精神科の本ではただ名前が書いてあるだけである。

教科書のどこにも書いてないからそれは正しくないかというとそうではない。
それはほとんどの医者が恵まれた家庭で育っているため、Sullivanをほとんど理解できないからである。

人が理解されていると感じることができるかどうか。
それはできる。
自らが感じたもの、痛いとか、熱いとか、まぶしいとか、音が大きいとか、それらが一次資料で生物が始原的に持っているもの。
それは0歳児でもわかる。
助けが欲しいときは泣いて訴える。
自分が理解されているかされていないか、共感されているかされていないかも知っている。
病者にも当然その能力はある。

精神科医の目から見ると想像を絶する世界の中で私は生きてきた。
だから、同僚の精神科医にどんな目にあわされようと、平気だ。

1年生最初岐阜県の小学校へ入学、塚口
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の小学校へ転校、岐阜県の元の小学校へと1年間で2回転校した。
1年生から6年生まで運動場で遊ぶ。
地区ごとに分かれてサッカーをやっていた。
1年生のとき、小学校の玄関の横で、1年生から6年生の
10人位の学童に囲まれた。
その中に3年生の3人の上級生がいた。
一番悪質なのが言った。
「羽抜けって知ってるか」と。
「羽抜けになりたくなかったら教室にいないで運動場で遊ぶことだ。」
と言われた。
他のやつらは笑っていた。
斜め向かいの近所の新屋と言っていた親戚の同級生もいた。
彼が「やめろやめろ」と言ってくれたので感謝していた。
しかし、こいつも悪だった。
口で言うだけで、奴らの一味だった。
そいつも一緒になって楽しんでいたのだ。
そういうことがあったので、教室にいないで、運動場へ行ってあそんでもらおうとした。
羽抜けの扱いは変わらなかった。
はじめからそういう扱いをするつもりだったら、そんなことはじめから言わなければいいのにと思っていた。
あ、そういうことを言うこともいじめの一部だったんだとつい最近思った。
これはいじめをやっているこどもの親も、そして教師もきづいている。
同じ地区のもう一人の同級生も50代になっても同窓会で帰って来い、帰って来いと言っていた。
なぜか理由は言わなかった。
そいつは60代で死んでしまった。

(いじめに加わったそいつは公務員になれたが、そこではいづらかったんだろう。
昼も酒を呑むようになって、57歳位で死んでしまった。
そいつは祖母がなくなったとき、葬式には出なかった。
しかし、大酒を飲んで、弔問に来た2人の上級医師の前へ出てきて、
「俺は竹馬の友だ。
医局など暴力団と同じだ。
そんなところにいないで帰って来い」と言っていた。
「医局は田舎よりはましだ。
だからもどらない。」と思ったが口には出さなかったよ。)

「田舎へ帰ってこい」というのはいじめ足りないということを白状しているだけである。
私は彼らと関わってはいけない。
彼らは不可触賤民なのだから。
彼らと関わるとろくなことがない。

生きていくのがつらいと早く死ぬ。
最短の死に方は自殺である。
stressによりたばこを吸ったり、酒を飲んだり、甘いものを飲んだりする。
そして、体を壊す。
病気になる。
という死に方もある。

渡部昇一氏がwillに書いておられた。
仲がいいとその集団の居心地がいい。
居心地がいいとそこに居ついてしまう。
成長もそこで止まる。
そんなことをちらっと書いておられた。

居心地がよかったから、弟は育った田舎にいついた。
私は小学校1年からこの年になるまでその田舎でいじめられている。
それは同窓会に出るとわかる。
なぜいじめられたか、「いじめられる方にも原因がある」と妻は言って、よく私をいじめていた。
一つの理由にいじめる児童自身にstressがあるということである。
いじめる3年生の家に遊びに行った。
その家に戦死者がいたことを知った。
かざってあった遺影が戦死者だとそこの家族に教えてもらった。

祖父は当時力を持っていたので父は死なない戦地へ送ってもらえた。
同級生の親(父の従兄弟)も死なない戦地へ送ってもらえた。
二人とも死なないで生きて帰って来た。
二人ともくそであった。
その証拠に二人とも離婚している。
同級生の母親はきれいな人だった。
それでうらやましかった。
父の従兄弟である奴は「妻に嫌がることをしてやれば向こうから離婚してくれる」と 祖母に言っていた。
祖母は「ひどい奴だ」と私の目の前で言っていた。

力のない小作人は死ぬ確率の高い戦地へ送られて死んでいく。
昔小作人だった人の近所の家に遺影がかけてあった。
聞くと戦死した人である。
私に対するいじめはそこから始まったと思う。
しかし、二人の弟には及ばなかった。
だから、弟はそこにいついた。
私はいじめられたことでそこには住めない。
そこから外へ出ることができた。
私は外へ出ることで、成長できた。

同じ高校卒で同じ田舎で開業医になられた人もいる。
しかし、65歳くらいでなくなった。
その先生もいじめられて受診者が少なかったたのだろう。
その先生にはあったこともないが、そういうところで開業してはいけなかった。

札幌の精神科医の娘が殺人をした。
裁判で無罪となった。
また娑婆の世界に入っていく。
でもこれからが地獄だ。
本当の人生だ。
だれも気味悪がって近づかない。
親子ともに村八分にあう。
村八分になるだけならいい。
そのたびに、娘は殺人したことを思い出すだろう。

私は7歳からずっとこの年になるまで、村八分にあっている。
殺人じゃないから、村八分なんて平気だ。

小学校6年のとき、そいつは教師で担任をやっていた。
その先生は寺の住職もやっていた。
その先生が住職をやっていた寺は美濃市立藍見にある寺だろうと思う
そこに行ったことはないが、墓場がその地区にある。
その先生はうすら馬鹿で無能であるがゆえに、祖父が人間として阿呆であること、父母が不在であることを利用して、ホームルームの時間を1時間使って、私に人民裁判をかけてきた。
その先生は警察官、裁判官、検事を気取っていたと今なら思うことができる。
多分、教師自身、私にいじめをやっていることに気づいていたのだろう。
今の時代でも教師の中にも生徒と一緒になっていじめをやって楽しんでいる奴がいる。
同級生と一緒になって教師もいじめたんだろう。
旭川の死んだ女子中学生。
旭川の女子中学生は死んで訴えた。
死んだ方が楽だったから凍死した。
これを問題にしてくれた人がいたから少しは救われた。

その小学校の先生は卒業アルバムにご丁寧にその結果を証拠として残している。
懲らしめているつもりつもりだったんだろう。
証拠写真をたどっていくことにより、小学校の同窓会でそれが事実かどうか確認することができる。

こどもが学校でいじめにあっているとき、教師も一緒になってこどもをいじめているということもある。
こういうときには、親が何らかの方法で教師に圧力をかけないといけない。
授業参観に両親がおしかけることも一つの方法である。
私は息子のとき夫婦でそれをやった。
馬鹿な教師もそれをやられると気づいておとなしくなる。

私の場合は、いじめを受けている間、自分は賢いと思っている、死ぬまで阿呆であり続けた祖父がいた。
祖父は何の役にもたたなかった。
私を守る大人は一人もいなかった。
父親は養育費を入れない、
母はここにいると殺されると思ったのだろう、実家へと逃げて帰った。
動物でも育児ができないとこどもを育てることを放棄する。
そして、こどもは餓死する。

医学部受験のため母に同居させてもらった。
そのとき、昔のことを聞いた。
俺らを置いていって俺らはどうなるんだと母に聞いた。
「いくら鬼でも煮て食うなんてことはしないだろう。
孫だから」と母は答えた。

母は実家で3年間泣いたという。
4年目からは江南の紡績会社に就職して稼ぎだした。
そこで稼いだお金を祖父母に送った。

小学生のとき、「 祖父母は母の送ったお金を祖父母は使ってしまう」と2人の弟を連れて、私は母の在所に訴えに行った。
話を聞いてくれたのは母の実父だった。

2つ目の大学に入るために母のところで受験勉強をしていたとき、
母は祖父母とそしておじさんの大量の手紙を見せてくれた。
金を送れという矢の催促だった。
祖父母からくるのはわかったが、なぜか同居していたおじさんも手紙を出していた。
弟にその話をしたら、「そんなもの、燃やしてしまえ」と言った。
いやいや、これは大事な証拠品だから今も大事にとっておく。

江南の紡績工場に勤めたあと、母は養護学校に職を見つけた。
私たち3人に大学を出るまで学資を送り続けてくれた。
(父も大学へ行く分は学資を出してくれた。)
私は2つ大学を出たから、その分多く学資を送ってもらった。

お金はこどもを育てるために大事だ。
だから、無能であっても稼げるよう資格をとっておくこと、
このことは身にしみてわかっている。
だから、強制的にこどものために資格をとらせた。

妻は私に対する不満を母に言った。
不満の内容は覚えていない。
母は何と答えたか。
母は人ごとのように「お気の毒さま」と言った。
そのことについて
「自分が育てておいて、それはないわ」と私に不満を言う。
母は死ぬ直前までその辺の理解はなかった。

「兄貴は精神病になるか自殺する。」
と私が18歳のとき、16歳の弟は私に言い放った。
今になっても何ら訂正しない。
失礼な行動をあやまりもしない。
当然だという顔をしている。
俺は兄貴よりよく知っていると主張する。
これを兄に知らしめることが俺の使命だという顔をしている。
そんな弟の浅はかさ、それに惑わされる馬鹿ども。
そんな田舎に住んでいた。

鉄道員
https://youtube.com/watch?v=SL4vp65aqxw
これを見る度に涙が出る。
小学校1年の途中から、岐阜県から塚口に引っ越した。
父は県職員をやっていた。3人の息子がいた。父は愛人を作っていた。祖父が転勤させれば女は追っかけてこないだろうという判断のもとで、祖父は県庁に働きかけて塚口へ転勤させた。
https://google.com/maps/place/塚本駅/@34.755735,135.4080794,44m/data=!3m1!1e3!4m6!3m5!1s0x6000e5dd60bf6f09:0x992e55d21decd47d!8m2!3d34.7126028!4d135.4688636!16s%2Fm%2F03cf3vf?entry=ttu
秋には父は家にお金を入れなくなった。
それでわが家は生活できなくなった。
1月に私たち4人の息子(1人は父親におろせと言われていたが、母は従わず大阪で出産していた)を母の兄のトラックに乗せて、祖父母の家に帰って行った。
以来、私達3人は高校卒業まで祖父母のもとにいた。(一人はすぐに養子にもらわれて行った)
中学校の頃だったろうか、fm nhkが鉄道員の音楽を流していた。
それを母が買ってくれたnationalのtape recorderに録音して何度も聞いた。
主人公は父親が大好きで、父に認められようと学業もスポーツも頑張る。
ついでに同級生からいじめにもあう。
そんな子供時代のお父さん大好きの気持ちがよく現れている名作だ。
私は当時も今も、その映画を見たことはない。
音楽を聴くだけで、悲しくって、悲しくって見れないからだ。
でも当時この曲を聞いただけで、映画の内容はわかった。
今は動画と音楽をyoutubeで聴く。
ああ、やはりそういう映画だったんだと思う。

お前たちは母に捨てられたんだとよく祖母に言われていた。
祖母は自分の息子については何も言わなかった。
死ぬ前になって、「あれはお父ちゃんが悪かったんだ」と打ち明けた。
「それだったら、はじめから何も言うな」と思った。

祖父がなくなり、祖母だけになったとき、祖母は父になぐられ、その痕の顔面、胸部を見せてくれた。
紫色の皮下出血が広がっていた。
ひどかった。
土地など家の財産を渡すために判を押さなかったからである。
これは警察沙汰なのに、祖母は世間体を考えてそういうことをしなかった。
そうやって息子を許してきたから、息子はそれも計算して行動する。
私たちもひどい目にあってきた。

つい最近長女が生まれた。
長男と長女の間にいる次男。
その分、母親からの愛情が少なくなった。
5歳の次男が誕生日祝いにケーキを買ってもらって食べる前に母親に抱いて「誕生日おめでとう」ってお祝いを言ってもらっている動画を今見る。
次男は恥ずかしいと思っているのだろうか、照れながら本当にうれしそうだった。
そのころは愛情をいっぱいかけてほしい。

「悲しみは星影と共に Andremo in Citta」サウンドトラック Soundtrack
https://youtube.com/watch?v=QSh4Kis5KJs
これも大好きな音楽だった。
でも今はもうつらくって聞けない。

Dinah Shore - Blue Canary 【720P】 青いカナリア - ダイナ・ショア
https://youtube.com/watch?v=REPqry3tBUE
これも戦争の歌。
今も時々聞く。
Dinah Shoreはこの歌を歌うためにnhkに呼ばれた。
「もう私にはこの歌は歌えない。なぜなら今は自分は幸せになっているから」と答えて、歌詞を朗読して終わらせた。
それを私は偶然録音して何度も聞いた。
Dinah Shoreは日本でもはやった。
雪村いずみが歌っている。

今、子鳩くるみのyoutubeを見る。
小鳩くるみ 山のロザリア 童謡・唱歌
https://youtube.com/watch?v=XlmApqGxm78

敗戦後の昭和、そんな時代、どんな歌もがんばろうよ、がんばろうよと励ましてくれた。
川田正子の「とんがり帽子」、美空ひばりの「越後獅子」も戦争孤児の歌。
倍賞千恵子の歌もすべて戦争の歌。

私は親に捨てられた戦争孤児。
私はそんな孤児のこころをよく知っている。
そんな時代があったんだと思い出す。

つらいときはそんな音楽に何度もなぐさめられた。
悲しい音楽は寄り添ってくれる。
悲しいこころに寄り添ってくれるからなぐさめられる。

小鳩くるみの動画がいっぱいyoutubeに出てくる。
ちょっと前まで著作権で聞けなかったが、今はレコード会社も子鳩くるみを出すことを許可しているようだ。

日本は変わらなければならない。

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