「小説」わだかまり

① 
「カチ」「カチ」とクリック音が、オフィスのあちらこちらから響いてくる。話し声はほとんど聞こえない空間が、この場にいる全員が目の前の仕事に集中しきっていることを教えてくれる。浩二は、都内にある小さな文具メーカーの営業部に就職してから二年がたっていた。非正規雇用を合わせても50人程度しかない小さな会社だったが、それなりに覚えることも多く、丸2年も経つと、入社したての頃に比べれば社会人として成長が感じ取れていた。最近は、百貨店などの比較的大きな営業先へも一人で回らせてもらっている。
 営業先リストをエクセルで整理していると、いきなり肩に手を置かれた。
「山口君、頑張ってるね。」
佐藤部長だった。部長は体育会系を具現化ような人間で、粗暴な振る舞いが女子社員から疎まれているが、人情に厚い篤い部分もあり、主に体育会系の社員から慕われている。学生時代はバレーボール選手だったらしく、体格と同じくらい声も大きい。
「はい、明日まわる営業先をチェックしていました。」
できるだけハキハキと大きな声を心掛ける。学生時代は中高とも吹奏楽部に所属していて、クラスでも目立つ存在ではなかったけれど、こうゆう人間との会話は得意だった。挨拶と受け答えさえしっかりすれば、目を付けられることはない。
「そうか。増田君がいなくなって、大変だけど頑張れよ。ハハハハハ。」
佐藤部長は、笑いながら自分の席に戻っていく。いきなり肩を叩くようなコミュニケーションの仕方でも、心が通じ合えると信じてるらしい。
 浩二は空席になってしまった隣席を見る。先月まで増田先輩が座っていた席だ。増田先輩とは、同じ大学出身だったこともあり、仕事での関係以上に親近感を感じていた。学生時代には、お互いを認識していなかったけれど、好きだったラジオ番組が一緒だったため、入社翌日には仲良くなった。お互い仕事中は、無駄話をするタイプではなかったので、ラジオ番組の会話が散発するぐらいだったけれど、教室の隅っこで好きなバンドの話をしていた頃と同じくらい居心地は良かった。
 先輩がいなくなった空間は、社会人として味気ない日々を過ごしている自分にとって、唯一感じれる人間味だった。職場で無駄話ができる人がいなくなって単純に悲しい。
 先月から、アルバイトのお局がオフィスの湿度が低すぎると総務部に訴えていて、いよいよ加湿器が設置された。自分たちにとって騒音を発生させるしかない機械が導入されていることを、先輩は知らない。加湿器に内蔵されたコンプレッサーの音が、先月まで人間が座っていた空間に向かって響いていた。



昼休み、増田さんからラインのメッセージを受信した。ラインのアカウントは、増田先輩の送別会で交換していて、就職先が決まったら連絡してくださいと伝えたことを覚えていてくれたみたいだ。

増田孝之:就職先が決まりました!!山口君には心配かけたこと申し訳な  
     く思っています。引き続き仕事を頑張ってね。

 元職場の先輩は、僕が心配していると思っていたらしく、誤ってほしいなんて思っていないのに、謝罪文を打ち込んでいた。スタンプも絵文字も、送ってこなかったところが、先輩らしさを感じさせる。けれど、文字媒体のコミュニケーションなんてものは、これでいい。浩二も文字媒体のコミュニケーションに、絵文字だとかスタンプを多用する人間ではないので、面白いスタンプを送って無理に盛り上げる必要がないことがありがたい。ただ、彼女への返信だけは、わざわざ購入したディズニーキャラクターのスタンプを使うようにしている。人によって対応を変えることができる器用さは、会社という環境を生き抜いていくうえで重要な要素だ。増田先輩には、人間によってコミュニケーションのやり方にグラデーションを付けるような器用さはないだろうなと思った。付き合う人間によって変化させられる、自分のバリエーションなんか絶対に持っていないのだろう。少なくとも、日本社会を生き抜いていくには、人によって態度を変えることができる能力を身に着けておかないと、人生が苦しい。いや、実際にあの人は苦しそうだった。増田先輩は一年前から、佐藤部長と仕事をすることが多くなっていて、頻繁に部長と先輩が一緒に外回りをしていた。佐藤部長も近々は、役員として社員を管理する側に昇進するらしく、自ら営業に赴くことも減ってきていて、部長が抱えていたお得意さんを引き継ぐ人員として、増田先輩に白羽の矢がたったのだ。管理本部部としては、長年取引があった会社だから、自信をつけさせる意味で若手を抜擢したのだろう。しかし、エネルギーの塊みたいな人の後釜を、他人からの目を常に気にしているような人が務めるのは難しい。増田先輩みたいな、人によって態度を変えられない人間にはなおさらだ。



先輩が会社を去る2か月前、浩二は外周りを終えて、会社まで帰ってきていた。
今日は、
階段の踊り場で、佐藤部長と同部署の松山さんとが話し込んでいた。なぜ階段の踊り場なんて、声の響く空間でわざわざ話すのだろう。他人に聞かせたいのだろうか。他人に影響を与えても平気とだと思っている人間だからこそ、ビルの縦方向に声が響く、階段の踊り場で噂話なんてできたのだろうな。

佐藤部長:「増田君はちゃんとお客様と会話ができない。お客さんからどう   
     やって信頼を得ていけるのか考えてほしいよ。色々資料を準備し 
     てくるのはいいけど、お客様の要望に柔軟に対応していかないと
     契約はとれないよ。」
松岡さん:「そうですね。」
佐藤部長:「せっかく、僕が長年かけて信頼を得てきたのに、これじゃあ全
     部が無駄になっちゃうよ。本当に頼りない。僕が入社3年目のこ
     ろなんて」

佐藤部長は、ほとんどネガティブな物言いをしない人だと思っていた。
けれど、ネガティブな発言をしてしまうほどまでに、先輩がお客さんからの信用を得られるか心配だったのだろう。他人から隔離された空間を意識した週間に、人は他人に対して攻撃的になれる。重要なのは他人から隔離された感覚を意識するだけでいいところだ。実際には、他人から全く秘密にされた空間じゃなかっとしてもだ。


不特定多数に、常に噂されている
仕事にとって必要な会話をしていたとしても、自分のネガティブな印象を共有しあっている気がしてしまう。
自分が外の世界に追い出されている自覚が芽生えてしまうと、

噂話は、「あなたにだけは下世話な情報を開示しますよ。だからあなたとは良好な人間関係を築いていくつもりですよ」というメッセージ性が含まれている。そして、良好な人間関係の外側にしか、自分は存在できないという事実は、精神を病んでしまう理由には十分だ。人間は、コミュニティ内の世論が自分の味方してくれていると自認しているときが一番個人に対して攻撃的になれる。つまり増田先輩はいじめられていると表現できる。浩二はそれを知っていながら、気づかないふりをしていた。
 浩二は先輩から送られてきたラインのメッセージを再度確認する。もう既読を付けてしまったので、早く返信しないといけない。

増田孝之:就職先が決まりました!!山口君には心配かけたこと申し訳な  
     く思っています。引き続き仕事を頑張ってね。
山口浩二:おめでとうございます。お祝いしたいです。来週あたり飲みに行 
     きませんか?

先輩を飲みに誘ってみることにした。
それは元先輩の近況を聞きたかったからなのか、パワハラめいた状況を無視した罪悪感を感じていたのかどうかは、わからなかった。きっと、どちらもなのだろう。無理やり決めてしまう意味はないし、言語化してしまうことで、自分の気持ちを枠に当てはめてしまう気がした。感情を言語化して無理やりに、他人に伝わる形にすることは、いいことばかりではない。
 けれど、仕事の関係性を脱した今だからこそ、ただひたすらに増田先輩に会いたいと感じていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?