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ふたりの灯台守と自慰行為の相互監視 : 映画『ライトハウス』感想

特報を見た瞬間から「絶対好きなやつだ…」という強い予感を抱いていた映画『ライトハウス(The Lighthouse)』をしかと観てきた。とても良い意味で“体感がすべて”と言ってもいいような映画だったので、この凄まじい気色悪さと興奮が体から抜けてしまう前に雑感を認めておきたいと思う。

※以降は完全に映画本編のネタバレ全開な内容になります。ご注意を!


個人的に劇中もっとも(性的な意味も含め)興奮を覚えたのは、やはり終盤、ふたりのイニシアチブが完全に逆転し、ハワードが犬のように鳴くことをウェイクに強いるところから破滅に向かうまでの一連のシーンだ。私はあのシーンに至るまでずっと、カモメをあれだけ残虐に殺せるような深い暴力性と狂気に飲まれているはずのハワードが、どうしてウェイクを抹殺することに対しては妙に逡巡し続けているのだろうと違和感を感じていた。文字通り絶海の孤島に閉じ込められ、食料は限られており、共生相手は自身の罪を知ってしまった偏屈で嫌味な老男ただひとりだけである。死体の処理や犯行の隠蔽においてあれほど絶好の環境はないだろうし、何よりウェイクは自身より体格も機動性も劣っており、ハワードにとって状況的にも物理的にもウェイクを抹殺するという選択は非常に合理的でもあったはずだ。

それなのに彼は“犬のように扱い屈辱を与えることで支配下に置く”、“墓穴に入らせ土を被せて黙らせる”というあまりにも“形式的”、もっと言うと“儀式的”な主導権の逆転に強い執着を見せていた。そしてとうとう鍵を手に入れたというのになぜか灯室ではなくわざわざ一旦荒れ果てた生活スペースに戻り“灯油を呑む”という自身をバグらせる行動を取ったあと、ようやく自身が殺されかけるという危機に陥ったところでどこか“やむを得なし”という様子でウェイクにとどめを刺していた。私はあの脳をぐわんぐわんと揺さぶるような強烈でありながらもどこか淡々としているようにも感じられる一連の描写を見て、ハワードはウェイクを“殺さなかった”のではなく“殺せなかった”のだということを理解し、その瞬間総毛立った。

なぜなら、“ハワードはウェイクを殺したくなかった”というその事実によって、物語が進むに連れ私の中で膨れ上がっていた「このふたりは本当に生きて実在する別々の個人なのだろうか?」という懐疑的な不安が一気に爆発したからだ。

私は序盤のあるシーンを目にした瞬間からとにかくまず「実のところウェイクはこの場に存在していないのではないか?」という気味の悪さを感じていて、実際その疑心暗鬼はウェイク自身がハワードに対し「俺はお前の妄想の産物なのではないか?」と問いかけるシーンですでに確信に変わっていた。だからこそ劇中の至るところに“ウェイクの感情や思考が一切読めない”瞬間が散りばめられていたことに感動したし、墓に埋めたはずの彼が復活して襲いかかってくるシーンはもはや人間ではなく完全に化け物や魔物の類にしか見えずゾッとして体が強張ってしまった。

しかし“ハワードはウェイクを殺したくなかった”ということに気付いた瞬間の恐怖と驚きはそれ以上だった。これは本当に個人的な体感でしかないので眉唾物として捉えてほしいのだが、私はあのイニシアチブが逆転しハワードがウェイクを葬るまでのシーンを見たことで、「実はハワードの方も実在する一個人ではなかった」ということを不思議と確信してしまったのだ。確信というよりかは、物語に対する考察が一気に方向転換してしまったとでも言えばいいのか。とにかくそういった登場キャラクターに対する衝撃的な認識の崩壊が起きてしまったのは確かだ。具体的に言語化するなら、あの一連のシーンを見せつけられたことで、あのふたりが“ひとりの男の中でふたつに分裂してしまった不安定な精神状態の擬人化”であることを思い知らされた、という感じだろうか。(もちろんこのような感覚に至った論理的な根拠もいくつかあるので、それもちゃんと後述する)

劇中に確固たる“明言”は出てきていないし、ただの推測でしかないはずなのに、なぜか体感的には脂汗をかくほどの妙な確信。それが『ライトハウス』という作品の凄みだと感じたし、あの確信に至った瞬間の体感こそがこの映画を映画館で観て良かったと強く思える理由でもある。

これは完全に私の身勝手な考察と解釈でしかないのだが、あのふたりの男は有り体に言えば心の中の天使(良心)と悪魔(悪心)といった存在なのだと思う。そしてこの映画の面白いところは、その善と悪の役割を極端に割り振ってはいないところにある。確かに一見するとカモメ殺しや過去の殺人を抱えたハワードの方が悪心であり、その悪心が塔の最上階で灯火を守るウェイクという良心を支配して完全に葬ったことで身の破滅を招いたとするのがもっとも収まりが良いように感じる。しかし個人的にはこの映画がそんな小綺麗な概念を描くだけにとどまっているとは到底思えない。なぜなら劇中におけるウェイクはどれだけ贔屓目に見ても“善”とは言い難いし、ハワードの方が“善”にしか見えない場面も多々あったからだ。そしてなにより物語後半彼らはふたりともほぼ常に“泥酔”していたのである。この男ふたりの泥酔状態における善悪の交接こそが、この映画のもっとも魅力的なテーマだと私は感じている。

この映画はそびえ立つ1本の灯台とその根元で寝起きする2つの男の魂という舞台設定が明示しているように、とにもかくにも男の物語であり、男性性についての問題提議を試みた映画であることも強く感じられる。男根のメタファーである灯台を守るふたりの男は、泥酔状態で武勇伝や失態を語り笑い踊り騒ぎ暴力を振いながら、ふとした瞬間危険な程に互いに身を預け慰め合ったりする。そして彼らが守る立派なイチモツは、定期的にけたたましい声を上げて世界を威圧している。年功序列を振りかざしては偉そうに振る舞うウェイクはマチズモ的思想を体現しているし、彼に無理やり女房役を強いられるハワードはそういった役目を男である自分が担うことに強い抵抗を覚えている。いかにもホモソーシャル内で発生しそうなパワハラや女性的ジェンダーロールを忌避する描写が絵に描いたようにわかりやすく登場する。劇中ハワードがウェイクの書き記した自身への“評価”を強く意識し絶えず知りたがっているという構図も、男性同士の切実な承認欲求のグロさを物語っていいた。(他にも多々挙げられる描写はあるが、おそらくそういった細かい表現については他の方の感想でも山程語られていると思うので割愛する)

とにかくこの映画は、これまでずっと社会的な優遇という美酒に依存して“泥酔状態”にあった男たちの嘆かわしさと悲しいほど心もとない連帯感を見せつけることで、男性性のどうしようもない脆弱な実態を生々しく描いている。そして社会はそういった男たちの弱さをこの先どう扱っていくべきなのか、また、脆弱性の中に見え隠れする彼らのいじらしさや愛らしさを当人たちが健康的に運用するためにはどういった思考態度が必要となってくるのか、そんなことを問いかけているようにも感じられた。だからこそ、ハワードもウェイクも分裂した男の内情でありながらも、そのどちらもが本質的なたくましさや正義を示せないまま互いの情けなさを暗黙の了解的に共有しつつ互いが互いを破滅させてしまうという落とし所になっているのではないかと個人的には解釈している。特に男同士の情けない“認め合い”の描写のひとつとして、ウェイクがハワードに「俺の作った飯を美味かったと言え」と駄々をこねるシーンはとても印象的だ。彼らは疎み合っているくせに互いの承認が欲しくて欲しくてたまらないのだ。そういった男同士の慰め合いと奪い合いを清々しいほど明快に描いているということも、個人的にはこの映画の“旨味”だと思う。

なので、狂気の果てに悲惨な肉体的最期を迎えるあのグロテスクながらも美しいラストシーンは、ハワードではなくウェイクのビジュアルで為されていたとしてもそれほど意味合いは変わらなかったのではないかと感じているし、その感覚がとても不思議な感動となって残っている。そもそもあのラストシーンは人間に深く同情し手を貸してしまったことで最高神ゼウスのヘイトを買ったプロメテウスの悲哀をモロに模しているんだろうし、その記号がどちらのトーマスであったとしても男根の頂点に君臨する灯火に手を伸ばしてしまった男たちの悲喜交交はしっかりと感じられる表現になっていたんじゃないかなと勝手に深い感銘を受けてしまった。(ちなみに、ギリシア神話に関しては知識が足りなすぎるので今はこれ以上深い考察はできないし、なんなら本編で名前を出してくれなかったら普通に「うわ!グロいけど綺麗なラストシーン!」みたいな漠然とした感想しか出てこなかったと思う)

とは言っても、灯火に触れて絶叫しているときのあの凄まじく官能的な表情は(ウィレム・デフォーだった場合また全然違った趣になっていたという意味で)ロバート・パティンソンの個性ならではとも思うので、一般的需要量の観点から“見栄え”を考慮するのであれば、あのラストシーンに若いハワードの体を用いたことは商業作品的に正解のようにも感じる。悲しいかな、世間一般の平均的な感性をターゲットにした場合、どうしても老男の肉体を“美”とすることはなかなかに難しいことだと思うので。

黒目なし

さて、前述したようにここからはダブルトーマスが独立した個人(キャラクター)ではなく対となった概念のような存在であるという考えに行き着いた根拠について語りたいと思う。

まずは映画の“デザイン(記号的表現)”にまつわる根拠として、序盤のとあるシーンにおけるふたりの配置(構図)があまりにも印象的だったことが挙げられる。そのシーンとは一本の太い柱を真ん中に挟み、両端にそれぞれのベッドが置かれたふたりの寝室が初登場するシーンだ。あのシーンではたしか最初ハワードだけが画面左側のベッドの上に居心地悪そうに座っていて、少し経ってから柱の影から用を足し終えたらしきウェイクが画面右側に歩いて登場していた。その“画面を分断する空間から別のキャラクターが登場する”という描写はかなり印象的であり、私はあの瞬間「出てきてはならないものが出てきてしまった」というような不気味さを強く感じた。今思うと、あれほど至近距離で他人の生理現象に立ち会うという悪夢のような気不味い状況を割と贅沢な尺を使って描いていたことにも、ふたりの間にある見えない同一性を無意識的に予感させる意図があったのかもしれない。“生理現象の処理をする空間”というのは絶対的なパーソナルペースであり、人間がもっとも無防備にならざるを得ない空間であるということからも、この考察はあながち大ハズレしているわけでもないとは思う。というか、ああいった排泄関連の様式描写は史実に基づいたものなんだろうか。もしそうだとしたら私はどう考えても当時の灯台守という職には就けそうにない。正直私はあのふたりの寝室に対し、まるで刑務所の監房のようだという印象を強く持ってしまった。

ただ、あのシーンこそがウェイクの、引いてはあの世界そのものの非現実性を顕著に感じ取れる最初のギミックだったのではないだろうかと今となっては考えさせられる。そして、この描写だけを根拠にしたとき、ウェイクの方だけが妄想の産物であるというミスリードに寄ってしまうことにも舌を巻いてしまう。

そしてもうひとつ、ある意味これが決定打とも言える根拠が存在する。それはふたりが度重なる自慰行為について相互的に“監視”し、“把握”し合っているという描写である。物語前半はハワードがウェイクの自慰行為を一方的に覗いているような描写が続くが、終盤ウェイクの日誌の内容が明かされることで、その恥部の監視が実は相互的なものだったという事実が視聴者に知らされる。あの一連の相互監視のような趣味の悪いやり取りは、一見“男が男の自慰行為に興味や執着を抱くこともある”というような性的な表現としての役割が強いようにも感じられる。実際、泥酔状態のふたりが熱く抱き合いキスをしそうになるような描写もあったし、あのふたりの間にある肉感的かつ性的な表現はそれが嫌悪なのか安堵なのかを問いかけるレベルで濃厚に描かれていたようにも思う。しかしあのウェイクの日誌に書かれたハワードの自慰行為に関する記述は性的表現としての役割というよりも、“互いの目の届かないときと場所を選んで行っているはずの行為を互いに把握しすぎている”という“違和感”を意図的に示唆しているようにも思えてしまう。その場に居ない相手がナニをしていたのかを知っているという事実を提示することで、やはりふたりは別個体ではなく同一の存在なのではないかという疑惑をあえて生じさせている気がしてならない。ハワードがウェイクの生理現象や性器についてあまりにも具体的かつ執拗に罵るくだりでは、その発言が不思議と自虐のように聞こえるほど生々しく、まるで自身の手でウェイクのペニスをいじったことがあるかのような臨場感があった。そしてその罵りもやはり悪意を感じるほど長い尺を使って表現されていた。ここまでキショイ執着で感想を認めているくせに不勉強で申し訳ないが、私はロバート・エガース監督が撮った他の作品をまだ見たことがない。しかし、この監督が熱いメッセージ性を込める際、長尺で執拗なほど具体的な描写をする癖があるのではないかということはなんとなく肌で感じられた。すごく強い思考や思想を濃縮しているのだから、そうなることは必然とも言えるのだが、私の性格的にそういった丁寧な仕事にも非常に好感を覚えた。

このように、避けようのない生理現象であるはずの男の自慰行為が“恥”や“虚しさ”としてい認識されてしまう風潮や通念を描くことには、男は伴侶(恒常的な性行為の相手)を獲得してようやく一人前であるというもはや宗教的信仰心に近いプレッシャーと、女を男にとっての“プライズ”として扱う傲慢かつ臆病も甚だしい古い“男社会”の膿を明確にする効果があると個人的には思っている。実際私も自身の創作活動において“男の自慰行為”を物凄く重要なテーマとして取り扱っている。だからこそ、『ライトハウス』における男の自慰行為の描かれ方にはかなり興味深いものを感じたし、あれらの表現には当事者であるからこそ嫌悪を捨てられないという男性性の切なさが宿っているようにも感じる。おそらくあれらの“覗き”や“監視”の描写には、ホモソーシャルの天敵である同性愛を意識させることの他にも、そういった彼らの当事者性を明示する意味合いがあるのだと思う。

そしてその当事者性から発生する彼らの惨めな相互監視こそが、ハワードとウェイクが別人ではなく同一の何かから分裂した精神や概念であることを物語っていると私は思う。相手の自慰行為から目が離せなかったくせに、その事実を相手への糾弾材料として利用してしまうといった矛盾した挙動は、自慰行為に対する自分自身の罪悪感を表現しているようにも見えた。そもそも同性間で“互いの自慰行為を意識(認識)している”ということが露呈するという状況は、それだけで相当気不味いことのはずなのだが、彼らはその気不味さに対しては別段恥を感じていなかったように思う。それもおそらくは彼らが互いをどこか自分自身であると感じていたからではないだろうか。

以上が『ライトハウス』という映画を見て私が体感した興奮と関心の数々である。あの物理的な圧迫感を演出する正方形に近い画面比率についてや白黒表現であることの意図といった“手法”に関しての考察は、素人の私などよりもずっと知識を有した方々が散々語っていると思うので、この投稿ではできる限り“日頃から男性性をオカズとしたゲイポルノを創作している男”としての観点で感想をまとめてみた。ここまで飽きることなく読んでいただけたのであれば幸いである。

本当に素晴らしい映画だった。やはり観たい!と直感した映画は無理くり時間を作ってでも映画館で観るべきだと改めて痛感もした次第である。

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