見出し画像

おはぎと母とわたしの事情

娘たちがあんこを煮て、母がもち米とうるち米を合わせたものを炊いてくれて、帰宅したわたしと娘たちで仕上げをする。
という、母娘三世代でこしらえた「おはぎ」は、甘さ控えめでとても美味しくて、サイズ感もちょうどよくて幸せな味だったので結果オーライだったのだけど、作るまでに母が機嫌を損ねる…というオマケつきでした。

朝の出かける前、「おはぎ用にかった大納言(豆)が行方不明になっていて、娘たちが探してたのだけど、場所しってる? 娘たちが煮たがってたから、あったら教えてあげてね」と、母に伝えていったところ、数時間後に末っ子から「ばーちゃんが大納言を煮ちゃったよ!」とちくり、いや、報告メールが来ました。

煮てくれた…と言ってしまえば、ありがとうと対応するところなのでしょうが、あんこを上手に炊くことをマスターしたい娘たちにしたら、初めて買ってもらった高級大納言を使われてしまったことが悔しくて仕方なかったようです。

対する母の方は、私が炊くほうが絶対に美味しい!という妙な自信があるようで、なおかつ、自分が作ったものを食べて欲しい人というよりも、自分が正しいことを教えてあげなくっちゃ!という願望がより強いために、子どもたちに任せることができない人だったりします。

普段はわたしが在宅してるために口出ししないのですが、わたしが不在にるととたんにアレコレと口出し手出しするため、子どもらに文句を言われております。そんな母は、余計なこと言ってしまった感はあるものの、教えてあげてるのに文句を言われることにはモヤっとしているようです。

わたしは、母の、やってあげているという関わり方が、人が何かを体験する機会を奪ってしまうことにもなるので、しばしば苦々しく思います。

やってあげる、という関わり方は、親切でありサポートである反面、成長する機会を損失させてしまう行為にもなりえます。

やってあげる…ということは、貴方のために…という思いでもありますが、私がやった方が早いから、うまくいくから…ということだったり、貴方のやり方では合格点には至らない結果にしかならないから…などなどの、やってあげた人の期待する結果が得られないことが続いたあとなどに、「やっといてあげたよ」的な関わり方になっていくような気もします。

定型発達の子どもでも、発達障害のある子でもどちらでも同じですが、子どもにお手伝いをお願いしはじめのころは、やっていただくために、いくつもの試行錯誤を施して、子どもに達成感を持たせることがとても大事で、「お手伝いできた!」「ありがとうって言われた!」という喜びがあるからこそ、次もお手伝いしてもらえるものです。

こうした積み重ねがあると、楽しく技能がしゅうとくできていくし、工夫を凝らしてもっとうまくやっていこう…という向上心も生まれるのでしょう。

発達障害のある子どもの場合は、指示の出し方に工夫が必要だったり、段取りをより細分化したり、ひとりでできるための条件を整えていく…などの、その子なりの配慮も必要ですし、基本的にゆっくりした作業になると思います。
ゆえに、「普通は…」なんて目線でみられるかたには、そのプロセスや結果から、やってあげなくちゃ!というお気持ちになってくのも理解できます。

でもね…、なのですよ。
やっぱりやらなきゃ上手くならないし、やるほどにちゃんとその子なりに成長しますし、その子の得意なところもどんどんみえていきますから。

わたしの母も、同居して3年ちょっとで、その辺りのこともわかってくれているのですが、たまーに素の在り方の方がムクムクとでてきます。

母は人一倍、誰かの役にたちたい人だし、何かしてあげたい人だから、なんですけどね。

そんなこともわかってるのに、我が子の主張を優先して、小言をぽろりと言ってしまう娘(わたし)なのであります。

*********

とりあえず、女子たちで(息子は寝てましたので)楽しくおはぎを囲んだ夕飯にできたので、よし!ってことで^_^

あちらも、こちらも大事にできる関わり方をできるステキな女子になりたいもんです。

この記事が参加している募集

スキしてみて

よろしければサポートお願いします! 日々の生活の糧にいたします。