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『あかり。』④相米慎二監督の思い出譚・演出コンテってそもそもなんだ?

ふと気づくと相米監督は関西弁を話すことが多い。

確か北海道の人じゃなかったっけ…そう思って「監督は関西の方なんですか?」と聞くと「オレのはエセや」と答えた。「そうなんですか」と相槌を打つと「関西に映画で長くいたからな」とニヤリとする。そういえば、直近の二作『お引っ越し』と『夏の庭』は、関西が舞台だった。しかしなんか変でもある。「まあ、そういうことにしておこうじゃないか」と笑って監督はケムに巻いた。


監督は謎の多い人でもあった。その謎はとても僕の興味をそそった。
いつも打ち合わせにくると「水ある?」と言い、差し出すと不味そうに漢方を飲む。田七(でんしち)という粉だった。「どこか悪いんですか?」と聞くと「全部や」と言って煙草を吸った。どこまでが本当で、どこからが本当じゃないかまったくわからなかった。

そういえば、監督に描いておいてと言われた演出コンテだが、もちろん描いた。何枚も下書きをし、可能性を考え抜き、悩み、これでどうだろうかというものを清書してお見せした。
監督は興味なさそうにそれを見て「これで、いいの?」と言った。
そんなことを言われてもこちらも困る。だめなのか、いいのかもわからない。
「え…あ、大丈夫だと思います」と僕は返事に困りつつも答えるしかなかった。
「あ、そう…村本くんがいいなら、いいということにしようじゃないか」
「え?あ……。ありがとうございます」
「じゃあ、飯にするか」
「え?これから代理店と打ち合わせです」
「そうなの?」
「はい」
なんてやりとりがあり、僕はとりあえずホッとして、それを制作部がコピーし、打ち合わせで配った。

後々分かるのだが、監督にとって演出コンテは大して意味を持たないのだ。
我々にとっては、撮影の準備やスケジュール、プロデューサーが見積もりを作るための根拠となるものであり(例えば同じカットを固定カメラ…フィックスで撮るのか、移動ショット…レールを引くのかクレーン移動にするのかでは予算も準備も違う)クライアントとのある意味契約書的な意味合いがある半ば決定稿なのだが、監督にとってはモノづくりのためのアイデアの出発点でしかないのだ。ここをゼロ地点として、どれだけ飛躍できるかが相米演出の始まりでしかない。


しかし、僕たち広告屋はコンテに縛られ、約束事にしようとして、変化や飛躍を自ら矮小化しているきらいがある。
クライアントに通った企画コンテに縛られ、演出コンテがその焼き直しになり、出来上がりも想定内にすることに、どこか慣れ切っていた。


しかし、相米監督は、これから作るもののすべての可能性を捨てずに、企画コンテの持つ意味の奥行きを探ることを最後まで止めない人だった。
問題は僕たちが監督の考えていることの深みを把握できないことで、聞き出そうとすれば「役者が動いてみないとわからないよな」とか「まあ、なんでもやってみようじゃないか」とか、ふわふわとかわされてしまい、どうしたら監督の望む準備になるのかがわからないことだった。


何にも決めないんだ……僕は驚いていた。仕上がりのイメージは当たり前だが、小さなことも含め何事も決めていくのがディレクターの仕事、つまり瞬時の決断力の集積こそディレクターに必要なものだと考えていたのに、監督は真逆のアプローチをするのだった。

勝手にイメージしていた<陣頭指揮を取ってビシビシい監督>なのではなく、関わる全ての人がこの仕事を通して、どうしていきたいかを優先していたのだ……が、そんなアプローチをする人に出会ったことはなかったし、とにかく段取りすべて一筋縄ではいかない人だった。

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