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『あかり。』 #16 映画監督の孤独・相米慎二監督の思い出譚

記憶というのは曖昧だ……と最初のころに書いたが、やはりそうだったようで、早速、当時のスタッフに指摘された。
「村本さん、#11 ターンテーブの二人(中井貴一さん・藤谷美和子さん出演)の内容は、別の作品ですよ。あれは自由が丘で撮ったものです。渋谷ロケとごっちゃになってますよ」
「あれ?そうでしたっけ」
「忘れたんですか?自由が丘の通り封鎖して、えらいことになったじゃないですか」
「ああそうかあ。確かにあれは大変だったよね」
「そうですよー」
LINEの相手は、当時の制作部Cさんである。
いつも、監督経費を気前よく仮払いしてくれたCさんだ。
「直しておいてくださいね」
「はいはい」

しかし、あの領収書、どうやって精算してくれていたんだろう? 怖くて一度も聞いたことがない。
いずれにしろ、渋谷ロケも自由が丘ロケも大変だったことに変わりはない。


相米慎二監督は、一人で食事できないのだと言った。

そんな人いるんだと驚いた。
僕は割に平気なたちだったので。
監督は、寂しがりやさんなのかな?とふつうに思ったが、半分はそうだった。
誰かと話し、時間を潰し、生産性があろうがなかろうが、孤独を嫌っていた人でもあった。それでいてすごく孤高だった。 
 

「偉くなっちゃったからな
ふつうの人が、そんなこと言えば不遜なことも、監督が言うと、さもありなんと思えた。

ところで、映画監督に聞いてはいけないことの一つに「次、なに撮るんですか?」というセリフがある。
撮れないから、苦しんでいるのであって、決まっていれば準備している。あるいは知っている。その人に情報がないということは、予定がないのだ。

しかし、時節の挨拶がわりに、これをみなさん多発する。そして、出会った頃、そんな機微も知らず、僕も何度か口にしてしまったことがある。
その答えの一つが「オレが偉くなっちゃったからな」である。
その意味がわかるのは、しばらくしてからであった。


監督の周囲の人々は、監督のことをとても愛していて、また一緒に映画を作りたいと願っている。
それは、一緒にいてみなさんと知り合うとすごくよくわかった。

だからこそ、大きな資本、いい原作、いい役者を用意して、前作よりスケールアップした映画を一緒に撮りたいと願っている。

だが、そんな機会は早々に訪れないし、なかなか用意することもできない。
そのジレンマを監督のお会いする周囲の人々は抱えていたように、僕には見えた。

それが、どれくらい不幸なことかといえば、相米慎二監督作品がなかなか実現しないこととイコールである。

僕は浅薄だったから、そんな、いちファンの一人が口にするようなセリフを吐いて、知らず知らず小さく監督を傷つけていたのだった。

前述の監督のセリフの意味は、深くて悲しい。
監督の評価や映画の仕上がりがよければよいほど、次作のハードルが上がり、実現性が低くなるのだ。

簡単に言えば『大規模でまさに映画らしい映画』だ。

しかし、バブルのはじけたあとの状況にあって、あるいは漫画原作やベストセラー小説の実写化がメインになろうとしていた映画界にあって、そうそう監督にふさわしい映画の企画は実現していかなかった。

そこそこのスケールの、そこそこの日本映画。
そんなものを撮る人じゃない、と周囲が勝手にハードルを上げていたのかもしれない。

それに、こんなことを書いている自分だって、あのころは、次の監督の映画は、世界に打って出るようなものに違いない、、などと夢想していた。
いや。そうあるべきだ、と、まさに勝手に思い描いていたのだからお恥ずかしい。

多分、監督は相談されれば、小さな作品でも話をきちんと聞いたはずだ。
だけど、監督に映画を撮らせたいと願う人たちは、同時に映画製作者としての自己実現も果たしたいので、『相米慎二監督にふさわしいステージ』を作りたいのだ。
それは実現するなら、とても素晴らしい考え方だと思う。
でも、実現しなければゼロなのだ。
監督は、何年も映画が撮れないままだ。

それに、肌感で、監督はそんなこととっくに感じていた。
だから、次の一手をどうするか内心模索していたのだと思うし、実際言葉の端々にそれは感じられた。

その狭間で僕は監督と出会っていた。そして、少しずつそういう『日本映画』を巡る空気を読み取りながら、自分が監督に対してできることや、今やれることを模索していた。

与えられたイメージ、それはもちろん監督自身が作ってきた部分も大きいのだろうけど、それを期待する周囲に、監督はなにを思っていたのだろう。
そんなことを今は思う。

夜な夜な、街に出て、監督の周囲の人たちと出会い、あるいはふたりで、映画のことを話したり、映画を見たり、芝居を見たり、そして季節の美味いものをむさぼり、僕は監督と多くに時間を過ごした。

今思えば、人生の大学に入り直していたのだった。

自由が丘で、いかにもCM的な感じのいい通りを借り切り、美術を仕込み、クルマを入れて動かしながら撮影する。今ならやるかな? お金もかかるし、住民からクレームがきそうだ。まず東京ではやらないんじゃないか。
でも、当時、僕たちは自由が丘でやった。地方に行く予算がなかったのかもしれないし、都会的な雰囲気をCMに求めたのかもしれない。
とかく記憶が曖昧だ。

まあ、そんなわけで、自由が丘で撮影したのだけど、藤谷美和子さんと相米監督の相性はよかったと思う。CMだから、その人物の影の部分は描かない。それもよかった。あの人の持つ影を監督が本気で出すのなら、それはもうCMとは呼べない。

わがままで変わったところはあるが、かわいい年下の妻。のんびりしてて、いつも振り回される夫。という役回りの範疇だからこそなのである。
出演者たちも監督も、暗黙のルールを守っていた。


上等のプロレスだった。

個人的には、アクションつなぎの編集やカット割り・秒割りがうまくいき、満足いく仕上がりだった。
15秒と30秒で使うテイクを変えたり、混ぜたりしながら、どちらもうまくできた。もちろん、冷や汗をかきながら、苦労したけれど。

竹内まりやの音楽とも芝居が合っていた。音楽に芝居が乗っていく高揚感があった。
竹内まりや? 相米慎二監督と、とても相性がいいとは思えないアーティストなのに、なぜか合う。これもきっと上等のプロレスの一種なんだろうと思う。



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