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あなたのコトバはあの人のコトバと同じじゃない

学びなおす JDギャル、ゆうです。
このフレーズは、哲う兎こと、りなるちゃんからいただきました。
そのりなるちゃんが、寝ても醒めても深淵な思索の旅路journeyにいる。

このバトンを受けようとした世界さんは、脳がキャパオーバー起こして発火しちゃったらしいので、あたしが最近学んだことを書くわね。
 
前回の記事で見出し画像にのっけたオッサンのことだけど。

ソシュールは、20世紀の構造主義や記号論に影響を与えた言語学者。
ソシュールを学ぼうとすると、ラング、パロール、シニフィエ、シニフィアンってわけのわからない用語が出てきて、よほどの言語オタクでないかぎりすぐに投げ出したくなるかも。
この稿であたしは、ソシュールをかじったことのある人もない人も関係なく「コトバとは何か?」の本質を世界一わかりやすく書くことに挑戦したい。


ソシュールの発見は、
「言語とは恣意的な差異化の体系である」
このひと言に尽きるの。
 
色を例にとるとわかりやすい。
虹ってホントに 7色なの?って話。
そんなわけないよね。そこには色のグラデーションがあるだけで、色の微妙な違いは無数に存在する。
それなのに、勝手に境界をつくって 7つに分けてるだけだよね。
例えば、青と緑の違いは、こっからここまでは青、こっからここまでは緑、みたいにムリやり線を引いただけ。その線には根拠も必然性もないんだけど、その線がないと青も緑も存在できない。
その線を引くこと=差異化=言語化=存在化なんだ。
コトバとは差異を画定する境界線で、どこに線を引くかは恣意的ってこと。
 
色だけでなく、世界のあらゆる事物は、この境界線=コトバによって初めて存在することができるの。
ソシュール以前は、「最初に事物があって、事物に対してコトバ=名前をつけていった」と考えられてた。たった 100年前までそんな言語観がまかり通ってたんだけど、本当はまったく逆なのよね。
「青」とか「緑」ってコトバがないと、色は存在できないの。
コトバがなかった世界というのは、ただの混沌があっただけ。
コトバが線を引くことで、初めて世界は存在し始めた。
(てことは、コトバがなかった世界、なんてものはそもそも存在しない)
 
「はじめにコトバがあった」
聖書の一文だけど、これは誤訳だと言われてる。
でも、千年以上たってから、意外と正しかったことがわかったってオチ。
 
コトバとは、モノの名前ではない。
コトバとは世界を切り分けるもの。差異を画定するもの。それも恣意的に。
コトバの本質は、差異と恣意性にある。
 
余談だけど。
ある辞書で「男」を引くと「女でない人」、「女」を引くと「男でない人」と定義されてて、ナメとんのかワレ!と言いたくなるけど、これソシュール的だと思う。


異なる言語というのは、モノの名前や文法が異なるなんて単純なものじゃなくて、世界の分け方が異なるってことなんだ。
身近な例をあげると、英語の brother は長幼で分けないけど、日本語では「兄」と「弟」に分けるよね。これはほんの一例にすぎなくて、外国語を学んだ人なら、コトバが 1対1 対応していないことをイヤというほど知ってると思う。
異言語を学ぶことは、異世界を学ぶこと。
 
じゃあ同じ日本語を話す者どうしなら、コトバが意味するところは同じ?
 
ここまで読んだあなたなら、同じわけがない、って直感的にわかるんじゃない?
あたしたちは日本語を体系的に学んだわけじゃない。
ラング(言語体系)としてではなく、パロール(話しコトバ)として覚えていったんだよね。
てことは、一人ひとりのコトバはその人固有の体験と結びついているはず。
 
ある人が発したコトバの意味を 100% 正確に理解するには、その人のこれまでの人生を全部見てこなくちゃならない。
絶対ムリなわけよ。
 
「あなたの言っていることに共感します」
みたいな言辞もじつはありえないんだよね。
それは、せいぜい文字どおりの意味、つまり辞書に載ってる表面的な意味を理解した程度で、その人が本当に伝えたいコトバ以前のものを感じるには、全然足りないの。

「コトバ以前のもの」って言ったけど、じつはそんなものはない。
「はじめにコトバがあった」のだから。
話す側も、自分の考えや感情をコトバ=不完全なものでしか表現できない。そのコトバとは、話す人の世界の分け方のことだから、同じ世界の分け方をもっている人にしか伝わらない。
 
そう考えると、例えば、自己啓発系の図書やセミナーなんかがいかに不毛なものかってことがわかると思う。成功者の体験は、その人のコトバで語ってるかぎり表面的な意味しか伝わらないし、せっかくの金言も、文字だけ見れば「そのとおりですね」という感想しかもてないもんね。


対話dialogueが大切なのは間違いない。
でもね。対話って何のためにするものだと思う?
わかり合うため?
 
対話の本質は、差異を認めることだとあたしは思う。
お互いの世界の分け方が違うことを確認し合うプロセス。
その世界の分け方は、双方ともに恣意的、つまり思い込みなの。
コトバとは、恣意的に差異化された世界。そんなコトバを使うことでしか、対話は成立しない。だったら、お互いの違いを認め合うことこそが大切で、その違いも所詮、主観でしかない、というところに気づくべきよ。
 
「わかる」の語源は「分ける」なんだって。
意外と、日本語もいい仕事してるって思わない?


りなるちゃんに引っぱられて抽象度が上がっちゃったかしら(きゃは☆)
「対話」って言ったらなんか高尚なイメージをもたれるかもしれないけど、友達どうしや恋人どうし、家族や同僚や交渉相手との、コトバのやりとりのことだよ。
同じ日本語を話す者どうし、話せばわかり合えるなんて思ったりしてない? その期待がそもそも誤りのもとだと思うよ。一つ一つのコトバに固有の意味なんてないの。あるのは差異だけ。その差異によって、おぼろげながら意味らしきものがあるように錯覚するんだけど、それですら一人ひとりの体験によって変わってくる。そんな不完全なもので、わかり合えるわけないのよ。
 
だから、対話によって相手を説得できるとか変えられるなんて考えないほうがいいと思う。ましてや、論破など愚のピーッ(胡っ蝶しのぶ)だわ。
 
お互いのコトバ=世界の分け方を披露し合うことで、違いをこそ発見してほしい。
対話によって同化する必要なんかない。
あたしたちはみんな違うんだから。
違いを楽しもうよ。違いを愛そうよ。
誰もが一人の「私」としてこの世に生を受けてるんだからさ。

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