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"普通"でありたいというその願いは
DNFです。
一昨日オリちゃんさんがこのような記事を出されました。
内容には感嘆しました。
オリちゃんさんの文章力は凄い、どのnoteもスキが多いですし、いつでも心を打つのですよね。ここまでしっかり言語化できるのだなぁと、同時に自分の未熟さを痛感した次第です。
小学生の時リバーシの大会でぬいぐるみを景品で3つ選んでもらえる事になった。
— DNF (@DNF63769503) June 4, 2022
3つ選ぶと「自分の分は取らないの?」と言われた。
ぬいぐるみは「男の子向け」「女の子向け」に用意されていて、私が選んだのは逆だったみたい。
恥ずかしくて逆を選びなおしたけれど「何が悪いの」と疑問だった。
私がジェンダー関係で初めて不自由さを体験したことといえばこれですね。最初はまるで指摘された意味が分かりませんでした。「え、自分が好きなの取ったんだけど???」とは思ったけど口にしませんでした。子供ながらに「あ……【普通】はそうじゃないんだ……」と恥ずかしく萎縮して、選びなおしました。
"男の子は、女の子は、これを選ぶのが【普通】だ"という概念も、
"これを選ぶのはバイアスに囚われてるから選ぶな!"という概念も、
どちらも選択の不自由さでしかない。
好きなものを自由に選びたいのです。
様々なバイアス
世の中には様々なバイアスがあります。
例えばこんな記事も一種のバイアスのようなものだと考えています。
(※もっと違う定義があるかもしれませんが……)
「救急隊員が水分補給で自動販売機の飲み物を飲んでいた」事が苦情としてあがったという記事です。もちろん多くの人からは「問題視することではない」と疑問や擁護の声が多く上がったそうです。これは「救急隊員」の特徴である「常に緊迫した災害地で活動をしている」という想像力しか及ばないために生じた認知(バイアス)を、押し付けたがために起きた苦情だと思われます。
「救急隊員という人間」の気持ちに理解が及んでいないがために起きた事だと認識してます。
被災者に対するバイアス、というのもあると思います。
「被災者は可哀想な存在だ」
「応援をしたら喜んでくれる」
「一時も早く立ち直って欲しい」
という想いが歪むと
「被災者は可哀想であるべき」
「応援をしたら喜ぶべき」
「効率よく早く前を向いて立ち直るよう最善を尽くすべき」
という押し付けになってしまう危険性があります。
「義援金を渡したのだからそれに応えて休まず努力しろ」とキレてしまうということですね。実際に被害を受けたら、心の休息が大いに必要でしょう。がんばれ、と言われて当人ががんばれる気力など【普通】は無いのです。そういった無理解から生じてしまう問題ですね。
zeta_plusplusさんの記事では「発達障害」について書かれています。
改めて、これが全文ですか。
— zeta_plusplus (@zeta_plusplus) May 13, 2022
一応当事者として、発達障害関係の記述は受け入れ難いです。
まるで常人の判断能力を持っていないかのようではありませんか。偏見/差別と受け取らせて頂きたい。
同じものを持つ人に声を上げて頂きたい。https://t.co/PMrv4Q3YQh#拡散希望#発達障害#ASD#ADHD
"常人の判断能力を持たない障害者"のように書かれている。こういったものも症状の理解のなさから来るものです。
理解のなさが偏見を生む
バイアスから生じる偏見は、決め付けにより思考を停止し、理解を妨げるものです。
幽霊なんて分かりやすいのではないでしょうか。幽霊のことなんて誰も理解してませんが、みんな見たこともない幽霊に想像を膨らませて恐怖します。
理解のなさ=恐怖や偏見を生むのです。
怨恨殺人より無差別殺人を忌み嫌う人が大多数だと思われます。あれは「動機が理解できないから」怖いのです。(行動原理が理解できるものであれば対処が可能にもなる、という意味もあるでしょう)
差別や偏見をなくすには、公正な目で見て"理解しようという気持ち"が不可欠になります。
そうすれば、ほとんどの場合そこに居るのは【普通】の人間なのです。
比較しにくい認知
ネット上やいろんなところで出る「家族の話題」。直接相談でもされない限りはそんなに他の人の家族を聞いたり調べたりすることはありません。
家族関係というのは独特で、物凄くクローズドなコミュニティであり、外界から隔離され社会の常識とはかけ離れてしまう可能性もある……そんな空間だと思っています。
だから比較が出来ません。
自分の家族関係が、世間一般でどういった評価をされるような関係なのかはなかなか分からないことです。
私には、今ここで打ち明けたい話が一つあります。
それは「大したことない」と言われるかもしれないし「異常だ、ドン引き」と言われるかもしれません。そして私はあまり人に家族の話を打ち明けたこともありません。
過去にはありました。その時の私は、本当に「軽い気持ち」で話したのです。でもその相手は「なんて重い話を聞かせるんだ、おまえの重荷を背負わせるな」と言い、私と絶交をしました。
絶交されたことはトラウマです。
それから私は今日まで、誰にもこの話を出来ませんでした。
もしアナタが、身の上話なぞ聞きたくないと思いましたらこの時点で画面を閉じてください。
"私"の独白
私が物心ついたころには父は家には居なかったので、母、兄、私、の3人で暮らしておりました。いわゆる母子家庭というやつです。
他の家族がどうなってるかなど【普通】は目にしません。だから私は「父親が家に居ないのは当たり前」だと認識していました。そして母親が働きに出て、帰ってくるまでは家に私と兄しか居ないのです。
小学生の時。学校でイジメのような事はありました。
何年間かはありましたが、私は学校では悪い事は悪いとちゃんと抵抗する子供だったし、成績素行全て優秀で教師からも好かれていたので孤立することもなく、私をイジメるものもいなくなりましたし、誰かを憎むようなことも全くありませんでした。どの子もみんな私のことを「頭も良くて優しい」と評してくれました。
学校で起こる様な嫌なことなんて、家庭の事に比べたら全然大したことはなかったです。
兄は私を苛めていました。年齢がそれなりに離れていましたので、致し方ないのでしょう。物心付くころにちょうど私が生まれてしまって、親の愛情を取られたように感じてしまっていたとしたら、憎まれていたのは頷ける話です。
殴る蹴るはもちろん。醤油を飲まされる、虫を食わされる、服を脱がされベルトで叩かれる(服に隠れる範囲だけ)。鉛筆で刺される。包丁で襲われる。そういった行為を受けてきました。左耳から一度大出血し、左耳の聴力が低下したのは残念に思います。
兄が怖くて、母には言えませんでしたし、母にはひた隠しにしてきました。母には心配かけたくなかったからです。(今でも兄から受けた仕打ちのほとんどを母は知りません)
でもほら、私は思っていました。
「兄がいる家庭は全部これが【普通】だろう」って。
「家に帰ると、兄がいるひとはみんなこんな辛い思いをするのに、凄いなあ。私は家で毎日怯えて泣きじゃくって死にたくなっているのになあ。私は本当に弱いんだなぁ」
幼い私はそのように信じていました。
兄の苛めは小学生~中学生の10年近く続き、ほぼ毎日苛められていました。
兄はいつも
「お前はこの世に居てはいけない」
「オレに詫びて這い蹲って土下座しろ」
と言い続けてきました。
「生きていて申し訳ありませんでした」と言わされながら、地面に頭をこすり付け、踏みつけられ、土下座させられる日々を続けてきました。
小学生の時こそ学校では優秀に振舞えていましたが、中学以降はだんだん病んでいきました。だんだんと私の環境は【普通】ではないと思ってきたからです。幸せな家庭の人間が、自分とは違う世界の人間のように見えて、あまり人と関わりたくなくなってきました。
兄には一切の抵抗はしていません。行動も、言葉でも。
行動に関しては暴力が嫌いだったからです。自分が原因で相手に痛い目を合わせるなんてなかなか出来ないことですよね。
言葉としては、単純に言い返せませんでした。兄が語る「私が生きていてはいけない」という主張に、反論する頭脳が私にはありませんでした。
どんなに悔しくても私は言葉を紡ぎ出せなかったのです。「私が生きていても良い」という理論を打ち出すことが出来なかったのです。
兄は私に死んで欲しい、私も兄に責められ苦しくて生きたくない。
自分を含めて誰も私の生きる事を望んでいないのですから。
ある日、兄は私にこう言いました。「毒を用意したから自殺してくれ」と。
当然私は「生きていてはいけない」のだから断る理由はありません。私は承諾しました。
……が、これで楽になれると思って今までの人生を思い返したとき、私の脳裏には初めて母のことが浮かびました。
だから私は言ったのです。
「お母さんは私に生きて欲しいと願ってくれている、だから死ねない」
そう、やっと、そういう理論を打ち出して反論したのです。
すぐに兄は答えました。
「じゃあ母親が死んだらすぐに死ね」
私は言い返せませんでした。
その後私は「母親が死んだら追って死ぬ」という約束の下に生きてきました。
私は自分のエゴで、それまでは生きる事になりました。
ずーっと。
ずーっと。
私は母親が亡くなったら死ぬんだ、と思って生きていました。
別に全く辛くなかったです、そういうものだと思ってましたから。私にとってはそれが【普通】でした。
さて、兄はというと、なんと兄は結婚して私と接点はほとんどなくなりました。たまに会っても大した話は出てきませんし、昔の約束の話も出てきません、イジメも何もありません。
もう、忘れているんでしょうね。
彼のイジメの行動原理は、母親からの愛を取られたと思うがゆえの嫉妬心から私に当り散らしていた事だと思います。奥さんの愛を得て満たされた彼は、そういった嫉妬心が記憶ごと完全に消え去ったのでしょう。
私がどれだけ虐げられて、劣等感を受け付けられて、約束に縛られた人生を歩んできても、兄は何も感じていないし覚えてもいないんですよね。
それに気づいた私は、おかしくておかしくて、馬鹿らしくて馬鹿らしくて、
道端で思い切り号泣してしまいました。
過去の被害への偏見
さて、今の私は"引きずっている"のでしょうか?
そもそも私の家庭環境は【普通】では無かったのでしょうか?
みんな似たり寄ったりではないのでしょうか?
世間的に見て不幸な方なのか、大したことない方なのか。
正直なところは私にもよくわかりません。
確かに私は今でも自己肯定感の低さは凄いと自認しています。長年植えつけられた「自己肯定感の無さ」は永久に埋めることが出来ないような気もしています。
でも私は逆にそれをきっぱり諦めました。「自己肯定感が低くても生きていけるよね」と。
特に仕事中は簡単でした。「普段は自己肯定感の強い人間になれば良い」のですから。仕事のスキルは自信が持てるところまで磨いたので仕事中は自信が持てるのです。職場内の人間関係も良好、ほとんどの人間は私のことを良く思ってくれてるし、男女問わず私に色んな人が悩みを打ち明けたり愚痴を言ってくる。センシティヴな話題も信頼して言ってくれる。
兄への憎しみに囚われなかったか?といえば、囚われていたときもありました。ただ憎しみは思考を曇らせ、復讐心は心を停滞させるものでした。前に進むために私はなるべく考えないようにしていました。
だから。
私は【普通】に生きれるようになったと胸を張りたい。不安はあるけども【普通】の人間であるという証左が欲しい。だから私は【普通】に口に出したいと思っていました。「こんな事昔あったんだ」って。今は【普通】だって。
そう思って以前人に打ち明けた。
でもそうは思ってくれなかった。私は「もの凄くネガティヴな人間」という事にされた。「過去を引きずっている」と「気持ち悪い」とされて絶交された。
過去にあった不幸はただの事実にすぎない。現に今、私は【普通】に生きている。その証左として「私は【普通】に生きれているよね?」と確認したかった。
過去にあった事実は災難であり私にはどうしょうもできなかった事実。今の私はポジティヴに生きていれていると思っている。【今】の私の性格が悪いのであれば致し方ない。しかし「過去にそういうことがあった」というだけでマイナスのレッテルを貼られるのは本当に辛い。【乗り越えて得たはずの今】を評価されずに、【過去】だけを見られる偏見が辛い。
数日前にこんな記事を書きました。嬉しいコメントをいくつか頂きました。実は1人、DMでこのようなコメントを頂きました。
「DNFさんの人柄の良さが伝わってきて素晴らしかったです!」
ありがとうございます、【今】が評価されて嬉しかったです。
……しかし、私の【過去】の話を聞いても同じ感想でしょうか?
私自身が乗り越えたと思っていても【普通】という評価を得るには、障害がまだあるのです。
虐待させるような原因があったという、被虐待児を責めること。
もっとひどいひとがいるからあなたのはマシだという価値観の押し付け。
もう過去のことなのに、まだ忘れられないのかというダメ出し。
恥ずかしいことだから言わない方がいいという自責と孤立させる言葉…。
それよりも、話を信じること。話をしてくれてありがとう、悪くないんだよ、もう大丈夫だよと伝えたいです。
『私には兄にとって疎ましい存在だったという原因があります。
私が受けてきた仕打ちは、他の酷い家庭に比べたら全然マシ。
私が時折思い出してナーバスになってしまうのは私の悪いところ。
こんなこと誰にも話すべきじゃない。独りで抱え込むべきだ。
私は話をして、嫌がられてしまったから、絶交されてしまったから。
私の話を、話してくれてありがとうなんて言う人、いないのだ』
……私のこの言葉を、論破してくれる方は居るのでしょうか?
性被害者への偏見
以前、神崎ゆきさんがTwitterでこのような記事を張ってくれました。
今回は特に詳細は話しませんが、私は性被害経験があります。正直なところ私が「性的表現が苦手です」と忌避しているのはそれのせいもあります。性的コンテンツを嫌いというより、楽しむ事自体に罪悪感を覚えるという気持ちがあるからです。
ただそれも……「周りから見てそれを楽しむことが、誤解のまなざしで見られる」という恐怖からによるものであるのでしょう。
“性被害者”であり、同時に“娯楽の性を楽しむ人物”でもあるーー両者は本来ならまったく矛盾しません。“性暴力を嫌うこと”と、“エンタテイメントとしての性表現を楽しんだり、コンテンツに関わったりすること”はまったく別の話だからです。
……まあ元々そこまで得意ではないのですが、性表現を楽しむことに対する事が許されるような、偏見から解放されるようなこの記事にはとても救われる思いがありました。
歪んでいるというレッテル
表現の自由を守る側の意見をTwitterで述べていると、反論で良く言われること。
【認知が歪んでいる】
何かの差別問題を訴える人が出てきて、主語になっている当事者が問題ないというと【認知が歪んでいる】と言われる。
何かも無に返す言葉です。
被害者は【可哀想な状態】でなければ【認知が歪んでいる】とみなされる。
被害者を守ろう、と訴える人が最も被害者を馬鹿にしてるのはどういう了見なのか。当事者に認知が歪んでいると突きつけるのはなんなのか。
(推し進めたいイデオロギーに利用できないという理由だけで、差別しているのではないのか?)
【普通】に生きている人が何故、認知が歪んでると言われなければいけないのか。なぜ、【過去】を理由として永遠に【普通】であることを許されないのか。
不幸な弱者として、【普通】を捨て、引っ込んでろというのか?
【普通】でありたいというその願いは
私は【普通】の人間でありたいと思っています。
偏見を受けてきた人間はきっと誰しもがそう思うはずです。
【こういう過去を持ってそう】みたいな揶揄を見かけます。逆に言えば【そういう過去を持っている人間はこういう事をする】という偏見なのでしょう。
不幸のような過去も、不幸な症状も、持って生まれた性別や、性的衝動や、好みや、職業が。
それだけで人格を決め付けられるような、尊厳を傷つけられるような、そんな差別を許してはいけないと思いますし、強い憤りを感じます。
私は【普通】でありたい。
……いや、【普通】になりたいのであれば
"【普通】などという【バイアス】"
それから無くさなければいけないのかもしれません。もはや私にとっても【普通】という言葉は崩壊しているのです。
これまで、この記事で何度も使ってきた言葉。
【普通】とはなんなのか。
母親が亡くなるまでは生かされてる状況が【普通】か?
それを乗り越えつつもたまに思い悩む、今の状況が【普通】か?
最初から何事も無く過ごせた人間だけが【普通】か?
【普通】でありたいというその願いは、本来の意図は【普通】になりたいのではなく【差別】されたくないだけなのです。
色んな人間が(多様性が)差別無く認められる社会であって欲しい。
そう私は願うのです。
終
最後までお読みいただき有難うございました。
【御礼】
この記事を書くにあたり、この方の言葉が私を楽にしてくれました。
無理に許さなくてもいい。許せる日はこない。
そしてこの先、思い出して泣く日がこなくなることが無いことも、それも、認める。
ネットでもいいから、吐き出して書いてみる。
ただ、それも必要以上に悲観しない。
もう自分の人生は次に進んだから、もう大丈夫だから、受け入れる。許すことができない自分も。
ひょんな出来事から……過去を思い出して辛くなって、負の感情に囚われて……そしてそんな負の感情に囚われてしまうこと自体に自己嫌悪してしまう。その「自己嫌悪」を止めるため「負の感情に囚われてしまうことも許す」、許せることで前に進んでいけるのだと思います。
「まあ私の身に起きたことなんてオリちゃんさんや他の方々からみたらなんてことはないレベル」……とつい思ってしまうのですが、そのように自分を責め、思い込むこともしなくていいのだと言ってくれているものでした。
言語化することで、自分自身と、もしかしたら他の誰かも救われるかもしれない。そんな気持ちを繋いでいけたら嬉しいかもしれません。
だから少し甘えさせていただきます……。
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