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表現と共に在るべきもの




※6月23日タイトル修正、及び、3か所補足の為加筆。
加筆部分には『』が付いています。

こんばんわ、DNFです。

表現の自由界隈

私は「【表現の自由】の大切さ説く人々」の一人です。

ここに共通するのは「表現規制」の煽りで人権を侵害される表現者を救うために声をあげることであり、その表現の在り方についても学んでいくものです。表現とは創作物に関わらず、人の意見、言葉も表現であると言えるでしょう。

今回は「表現者」の在り方についてです。

表現の自由における誹謗中傷

"【表現の自由】において誹謗中傷はしてはならないのが原則だと思いますが、DNFさんはどう思われますか?"

先日このような質問を受けました。
なんで私のような頭の悪い人間にこんなこと聞くんだと思いましたが
きっぱりお答えしました。

「そんな原則はないです」

【表現の自由】などの人権保護の法は、公共の福祉に反しない限り最大限に尊重されるからです。

公共の福祉という言葉は字面から誤解されることがありますが「公共の場で大多数に認められるもの、相応しいもの」みたいなフワッとしたイメージを持たれてる事もありますが違います。公共の場において――すなわち「社会において他の誰かとの衝突で、法によって守るべきだとされた誰かの人権が侵害されてしまう時」に制限されるものという話です。

例えばいわゆる「正当な批判」は全く問題ないわけです。たまにその批判に対して批判で返すと「私の批判は表現の自由だから批判するな!規制だそれは!」という無茶な論法をする人もいますが当然「それの批判」も表現の自由です。(まあ規制だ!と言い返すのも自由ですが……

一番よく言われるのは誹謗中傷ですね。誹謗中傷という言葉は「法律上で扱われる言葉ではない」というのがポイントです。
「名誉毀損罪」「侮辱罪」「脅迫罪」等は当然表現してはいけません。

しかしそういったものに当てはまらない誹謗中傷というのがあります。
そして中にはなんと「現実では罪になるけどインターネット社会では罪にならない表現」もあります。なぜなら匿名アカウントに人権があるのか?といえばなかなかそれを実証できません。そのせいで精神的に苦しみを伴い、現実社会では罪になるような誹謗中傷が、ネット上では罪にならない誹謗中傷になっています。

罪にならない以上は【表現の自由】は、それらを考慮しないものです。よって自由なのです。『自由であるべきものを規制すべきと考える事は危険である事は留意しなければいけません』(『』内加筆)

表現の自由を行使した結果、誹謗中傷が発生したとしても【表現の自由は誹謗中傷を認める】のです。
以上!!




で  
す  


これを
"表現の自由は誹謗中傷を認める"

"表現の自由は誹謗中傷を制限しない(できない)"
と言うのでは、印象が大分違いますね。

"表現の自由は誹謗中傷を認める"ことは、「誹謗中傷を否定する」ことではありません。
"表現の自由は誹謗中傷を認める"ことは、「誹謗中傷を肯定する」ことでもありません。


「表現の自由は誹謗中傷を認めてるから!」と言って誹謗中傷をする人を
「表現の自由は誹謗中傷を制限できないから」妨げられないという事実があります。

それを調整、抑制したい気持ちが、表現者に求められる「道徳観」というものです。

表現の自由と道徳観

多くの表現者にとって、表現の自由は守りたいという願いが共通しています。そしてその多くの表現はほとんどが公共の福祉に反さず多くの人の道徳観の範囲に納まっているように思います。
私たちは健全な営みとして、表現の自由を皆に訴え、守って欲しいと願います。時には「表現規制派」と戦うような事もあります。

しかし例えば「誹謗中傷は表現の自由!」と行って攻撃してまわるような人間が居たらどうでしょう。周りの人は「表現の自由はやばい、規制しなければ」と思ってくるのではないでしょうか。

表現の自由は度々侵害され守られないことがあります。
それなのに「規制派が好きな表現だから燃やし返す」といった規制派のような行動を取るものであったり、
「批判にはどんな誹謗中傷も認められる」と周りから決して支持が得られないような振る舞いをする事は、表現者達にとってのイメージダウンであり手痛いマイナスです。

道徳なき表現の自由を行使した先に、明るい未来はあるのでしょうか?

表現の自由と、道徳は、同時に並行して考えられるべきなのです。

自主規制

私は最近まで【自主規制】というのを
「どこかからクレームが出る可能性が高いので自粛する」
という事だと思っていました。

「……合ってるじゃん?」と思われる人がほとんどでしょう。

東日本大震災を経験しました、このnoteを読んで頂いてる方のほとんどは経験しているでしょう。

その時、世の中から普通の広告は消え去りました。
(屋外広告もなのですが、CMは特に印象的だったでしょう)

とある広告業界を描いた漫画が、当時のことを描写していました。
その漫画は広告業界の人間が主人公であるため、広告を作るのにどれだけの人間が関わり、どれだけの想いが詰まっているか
そして多くの人間の協力を経て完成する風景が描かれていました。

ぜひ世に出したい広告のはずです。

しかし東日本大震災が起き、津波によって多くの命が奪われました……。
その広告は「水」をイメージした広告だったのです。
主人公は多くの人間が関わりやっと完成したその広告を想いながら悩み、

泣きながらこう言いました。

「ダメだ――この広告を――今すぐ降ろさなくては……」

表現者であった主人公は「道徳心」から広告を自粛を決意しました。


私は自分自身を恥ずかしくさえ思いました

本来の【自主規制】とは
「誰かの心を傷つけたくないという道徳心から自粛する」
というものだと認識させられました。

今では企業倫理……企業人格(法人格とは別)というのも重視されており「企業は良い人であるような人格を持つべきだ」という理念があります。

上記の漫画でもそれを示すようなシーンがあります。
表現の自由を突き通すために「広告は出そう!」という意見も出てくるのですが「こういった時の企業の行動を人は忘れませんよ」と言われて、自粛するのです。

もちろんこれは元来「マーケティング手法」の範疇の話であり、営利目的の考え方であるかもしれません。それでも「企業に道徳性を与えよう」もしくは「企業に道徳性を求める」という声が大きくなってきているのでしょう。

そう、表現は「道徳性」が問われるのです。

【道徳】個別主義

道徳主義といっても様々です。
そもそも何を道徳とするか?といった議論が付きまといます。

道徳というのは定まっておりません。法律と違い規範がありません。

あらゆる事象に共通する道徳規範が存在するはずだと主張する「普遍主義」というものもあります。しかし道徳規範は万人に認められるようなものは実在せず、それを探していく学問です。

そしてそれに対を成す「個別主義」というのがあります。規範など一切存在しないという主張です。ゆえに道徳的判断は常に個別に行われるものだとするものです。

私の所感としては「道徳」といえば普遍主義(決まったマナーやモラルがある)を説明する人が多い印象ですが、実際には個別主義(ケースによって最善は変わる)を実践する人が多いと思います

凄く大まかな例えをすると
「嘘は悪い事だ」とするのは普遍主義であり
「嘘が悪いかは場合による」とするのが個別主義、と言えます。

どちらの場合も憲法、法律等で定められたことではなく不確かなものを信じて動く……という側面から"宗教的だ"と論ずる方もいます。

その例えは相違ないかもしれません。

しかし宗教は信じるべき絶対的な神の存在があり、思想もある程度派閥がある程度で、その教えにはほとんど違いがありません。

道徳には絶対的なものはありません。価値観も人の数だけ違います。つまり自分の価値観の道徳を信じても他の人とは衝突してしまうため、信じすぎてはいけないものなのです。

言うなれば、不確かなものを重視する考え個別主義の道徳です。
だから正解はなく、常にその都度考える事になります。

【規範倫理】の最大幸福原理

分かりやすいほうの道徳です。

私は自分自身の倫理観を全く信用していません。
 私は、倫理観・道徳心・正義・モラルなど、私に内在するそれらの価値観の一切を常に疑っています。

SNS運用における「新しい戦略」
※noteは有料ですが、同じ言葉がnote公開時のTwitterにてツイートされているため、引用します

Twitter上で神崎さんは「やらない善よりやる偽善」をモットーにし、被害者支援の寄付金の呼びかけなどを積極的に行っていました。これらの行為は、行為功利主義や総量功利主義に当てはまる最大幸福原理に基づくものです。

その原理では”善とは「より多くの人を幸せにする行為である」”規範を定め、動機を基準にしません。

カントという哲学者が唱える定言命法による考えでは、不純な動機による行動を認めておらず、「不純な動機は道徳的ではない」とされます。
この道徳観は多くの人の心に根付いており、これらによる不道徳感を払拭するために、最大幸福原理は馴染みやすい道徳観と言えます。
(……完全に私見を加えますと道徳観の強い人ほど自分の動機が純粋ではないのでないかと悩み苛まれる傾向があるので、神崎さんはそういうものを乗り越えてきた方だと思っております)

また上記記事ではマーケティングの観点からも説明があります。
物凄く本当にざっくり説明すると(詳しくは記事をお読みください)
”マーケティングにおいても定着力を高めるには道徳性が求められている”
という話です。

表現選択派という呼称の反論

"表現の自由を公共の福祉以外の理由で制限する行為は、好き嫌いで選択しているにすぎない。だからそういった人たちを「表現選択派」と呼ぶ"
という揶揄を含めた意見があります。

私はフェミトーさん同様、表現の自由を振りかざして全ての表現を、原理的に守るべきだとは思いません。【表現の自由】を守ると同時に【道徳性】や人の【心】を守っていきたいと思います。

表現の自由は、時には「自分が嫌いな表現も同様に認める」ものです。『特に容易に見る側が避けられる表現を規制しない事を多くの人が意識すれば多くの表現が守られるものであり、それは先に述べたとおり最大幸福原理の観点からも推奨すべき道徳観でもあります』(『』内加筆)

言い換えれば「表現には法の制限に加え、道徳性を問う」ものであり「好き嫌いで選択している」といういかにも「個人の好み」のような物言いの「選択派」というのはレッテルに過ぎないと考えます。

もし敢えて呼称するのであれば
原理主義……いや、「法規主義派」に対しての「道徳主義派」でしょうか。

道徳性の無い表現は?

ここまで読んでいただきありがとうございました。


誤解の無いように申し上げます。

【まず表現の自由は誹謗中傷を必ずしも制限しません。しかし表現者は道徳性をもって表現するべきです(その姿勢は必ず問われるものです)表現の自由を盾に道徳観のない言動をすべきではありません】
『※表現者自身が意識を持つべきであり、同時に、全て表現者の判断のみに委ねられる、自由は担保される』(『』内加筆)

これが私の【表現者にとっての表現の在り方について】の主張であり、表現者に求める理想論です。

※私は理想主義者である事は上記で語っており、理想と現実のバランスの"黄金比"を追い求めるべきだと考えています。


しかし【道徳観】がない人間の表現や、すでに発生した誹謗中傷はどう扱うべきか、どう対策するべきか?


この方々が現実的な取り組みの話をしておりますので、ご覧ください。
今後の神崎さんの発信にも注目していきたいです。

最後に



道徳
というのは正解が無く、時代、状況によって移り変わってしまう不確かなものであり、その都度個別に考えられるべきだと思います。

からして私たちは「常に悩み」「常に考え」「時には間違い」「苦しみながら」道徳と向き合って、表現をして生きていく。


その悩む姿こそが人間の健全な営みなのです。


正解が自分の中に無いことを、恥じる必要はありません。
間違った時は反省して、悩んでいきましょう。



DNF@P_drenreb

最後までお読みいただきありがとうございました。
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