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誰もが「表現の自由論者」だったなら。

こんにちは。フェミニスト・トーキョーです。

Twitterでのやり取りをご存知の方であれば、私がとある記事に関しての議論を展開していたのは周知のことと思います。

私はその記事に関して、ある修正を筆者さんにしてもらうべく奮闘しましたが、力及ばず、私からの要請は直接は聞き入れられませんでした。
しかしながら、別途に関係者諸氏の尽力により、最終的には望む形になりましたので、以後そちらの事案に関しては手を引くことと致しました。

今回は、この記事に書かれている「表現の自由派」というものについて、ちょっと思ったことがありましたので、それを書き連ねてみます。

なるべく短くまとめたつもりですので、最後までお付き合いのほどよろしくお願いいたします。


まず、大前提として。

私は自分のことを「表現の自由を追求する者」だとは、そもそも思っておりません。

これは以前から、事あるごとに自分のTwitterで発信してきましたので、今回の件で誰かに何かを言われたから述べているわけではないことをお約束します。

私がずっと願ってきたのは、

「自分が好きなものを、堂々と胸を張って好きだと言える世界」

でしかないのですが、それを阻害しようとするモノやヒトと戦っていると、その相手から、

「この表現の自由戦士め!」

と呼ばれるため、私や、私と同じ志を持つ人々が「表現の自由界隈」などとレッテルを貼られているだけで、私が自分自身から「表現の自由派である」と名乗った覚えはただの一度もありません。

ですので、どのような呼ばれ方も、全て他者が付けた名称、勝手に貼られたレッテルに他なりません。

そして、ここでもう一つ声を大にして言いたいのは。
同じ志の、と申し上げたとおりですが。

私と同じように、自分は表現の自由派だ、などと主張したことすらないのに、「自分の好きなものを蔑むのをやめてくれ」、と言っただけで「表現の自由界隈の連中だ」などとレッテルを貼られている人が大勢いる、ということを、どうか念頭に置いていただきたく思います。


さて。

私が件の記事に関してお願いしていたのは、その記事のタイトルと内容が個人攻撃にあたるものであると考えたので、それらを変更して欲しい、というものでしたが、作者さんからいただいた答えは、

あの記事が特定個人のことを指していたことは本当に申し訳なく思っていますし、私の失敗だと感じていますけれども、
あの記事の内容がその個人を超えて妥当するとも思っていますので、絶対に消しません。

https://twitter.com/totutohoku/status/1537479934217981952

というものでした。
この「個人を超えて妥当する」という言い方に、私はとても興味を持ちました。

私はこれを、個人の好き嫌いや嫌悪感などよりも、表現の自由の方が優先される、という考えだと理解しました。

そして同時に、それはある意味で完璧に正しい、とも思いました。

前述の通り、私は表現の自由論者ではありませんが、道徳観や倫理観などというものはいったん置いて、自らが述べたいことをまず述べることこそが、本物の言論の自由である、という考えであれば、そのものは理解できます。

というよりも。

そんなのは、世の中の誰もがそうであっていいはずだ、とさえ思います。

道徳だの、倫理だの、常識だの。
そんな属的なものにいちいちとらわれず、自らが言いたいことをそのままぶつけたい。

誰もが望むことを許されてよいはずだと思います。
だって、この社会において表現の自由が許されている以上、世の全ての人は表現の自由論者であっていいに決まっているのですから。


まぁ、でも。

私はやりません。というか、出来ません。
世の殆どの人がそうだと思います。

大体の人は、道徳だったり、倫理だったり、常識だったり、近所付き合いだったり、グループ同士のカーストだったり、しきたりだったり、暗黙の了解であったりと、さまざまなフィルターを「表現の自由」の前に置いて喋っているのが現実社会です。

何故かと答えるまでも無いと思いますが、世の中の全ての人が、真の表現の自由を振りかざしたら、何もかもめちゃくちゃになって回らなくなるのが容易に想定できるからです。

ですよね?

でも、その中で。

どうしても、これだけは譲れない、だとか。
どうしても、これだけは許せない、だとか。

さまざまなフィルターを超えて、自らの尊厳を守るために、偏った発言をすることがありますよね。

ですが、それを「表現の選択」と呼ぶことがあるそうです。

何もかもを際限なく許すことこそを「表現の自由」だと言うのだと。
許せるものと、許せないものを選んではいけないのだと。

なるほど。

で、あればですが。
つまるところ。

世の中のほとんどの人は、「表現の自由派」と「表現の選択派」が心の中で共存している、と言えないでしょうか。

なぜなら、「表現の選択派」の人間も、自分らしく発言したいとは願っており、自分らしく発言する刹那だけは「表現の自由派」になるのですから。

少なくとも、「私は表現の選択派だ」と、自分から標榜する人がいない限りはそうであろうと、私は思います。


先ほど、世の中の人全てが、常に「表現の自由派」だったらめちゃくちゃになる、と申し上げました。

しかし同時に、世の中の人全てが、常に道徳や倫理に支配されて、言いたいことなど何も言えなかったら?と思うと、そんなディストピアな世界に住みたい人だって、やっぱりいないでしょう。

では、実際の世の中はどうやって回っているのか?というのを、冷静に考えてみましょう。

まず、表現の自由派の考えをおさらいしてみますが、

「Aは大好きだから許せるが、Bは大嫌いだから許せない、と言うのなら、それは表現の自由を害している」

と言われると、なるほどそうか、と思いがちですが、実際の社会では常にそのような表現の自由を追い求めるわけにはなかなかいかないので、

「私はAが好きで、Bが嫌いです」

「ボクはAが嫌いだが、Bは大好きだ」

「そうですか、でも、私はBを好きになることはないと思うけれど、Bが好きなあなたを否定しないし、Bが存在することも否定しません

「ありがとう。ボクも、Aは嫌いなままだろうけれども、Aのことも、君がAを好きであることも馬鹿にはしないようにするよ」

という、互いへの畏敬の念と尊重でギリギリ保たれているのだと考えました。
そのような話を、以前に「多様性の尊重」としてまとめたりもしました。

三度繰り返して申し上げますが、私は表現の自由論者ではありません。

でもたまに、本当に自由に自分の言いたいことだけを叫びたい!と思う瞬間も、人生の中ではやっぱりあります。

それでも、この社会ではそういうわけにはいかない。

だから、「表現の自由論者」でありたいと思いながら、生きるために「表現の選択」をして生きている。

それが、当たり前のことだと思っています。

表現の自由というピュアな考えは嫌いではありません。
でもそれでは生きていけないので、私は、今日も色々なことを選択しながら生きて行くようにします。

だから、その背中に「表現選択派」などという奇妙なレッテルを貼って欲しくないのです。

そして、私と同じように日々を選択しながら必死に生きている人達のことも、どうかそのようには呼ばないで欲しいのです。

これが、私からのアンサーです。

(了)


ご精読いただき、誠にありがとうございました。


最後になり恐縮ですが、イラストの使用を快諾してくださったよなかさんに、心からの謝辞を贈ります。本当にありがとうございました。


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