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『ロッキー』 と 『レスラー』の表裏一体の構成について【ネタバレあり】

はじめに

スポーツをするのは嫌いだが、スポーツ映画を観るのは好きだ、という人は多いと思う。何を隠そう筆者がそうだ。筆者はサッカーのリフティング回数最高3回、バスケのパスをキャッチミスして顔面を強打し、野球では打球を長嶋茂雄よろしく股抜けさせる。要は運動神経が壊滅的にないのだ。そんな筆者にあって、スポーツでカタルシスを得られるのは映画の中だけだ。運動(特に球技)が全く駄目な分、せめて映画で熱い思いを味わってしまおうという魂胆だ。

また、筆者は根性論が好きである。誤解されないように言っておくと、筆者が好きなのは自分で考えた自分なりの根性論であって、他人に強制される根性論は大嫌いだ、ということを明記しておく(他人に強制するのも嫌だ)。
不可能を可能にするため、才能を凌駕するため、越えられない壁を越えるため、青春においてたった1回しかチャンスのない大会での勝ち星をあげるため、必死に努力する者を見るのは誠に気持ちが良い。だからスポーツ映画は好きだ。今回は、そんなスポーツ映画の中でも筆者が特に好きな『ロッキー』と『レスラー』について語りたいと思う。

スポーツ映画、アクション映画とは?

スポーツないし、ある種の競技を扱った映画はジャンル的に言えば、“アクション映画”というものに分類されるように思う。アクション映画なら、人間の運動がいかに美しいか、いかに心を熱くするか、ということが映像に収まっていればもう勝ちみたいなものであるが、ここに“スポーツ”という競技性が加わることによって、さらなる要素が加わる。

人間と人間が向かい合って競い合う、という要素がそれである。ほとんどのスポーツには敵対者が存在すると思われる。敵対するチーム、対戦相手、ライバル…こういった敵との対決というは、物語に組み込むと非常にエモーショナルな要素となりうる。
また物語的にだけではなく、映像的にも良いスパイスだと思われる。『ロッキー』はボクシング、『レスラー』はプロレスだが、この競技はどちらも対戦相手と向かい合って雌雄を決する。この”向かい合う”、という行為が映像的にとても大事だと思う。同じ方向を向いたり、別々の方角を向いていては駄目なのだ。対立構造を視覚的に手っ取り早く表現できるため、ボクシングとプロレスという2つの題材は映画に向いているというわけだ(従って陸上競技などは映像化に向かないということだ)。

なんにせよ、自己実現をシンプルに競技に求める男たちを観るのは気持ちがいい。一心不乱に一つの目標に突き進んでいく人間を観察することは、映画が面白くなる条件に合致しているようにも思える。
『ロッキー』と『レスラー』。この二つの映画は、ボクシングとプロレスという異なる競技を描いているが、内容は真逆と言っていい構成を採用しており、最終的に主人公が自己の証明を競技に求める点は同じであるが、そこに向かうまでの道順がまるで逆なのである。月並みな表現だが、コインの表裏のような関係の映画で、『ロッキー』が陽なら、『レスラー』は陰の映画だ。今回はそのことについて書いていきたいと思う。

 

『ロッキー』の場合

ボクシング映画の傑作『ロッキー』の場合、物語はどのように収束されていくのか?

物語はフィラデルフィアという町から始まる。寂れたところで、陰気な雰囲気が漂っている。ここに住むロッキー・バルボアは三流ボクサーである。しょっぱい試合をして、勝っても負けてもポップコーンを投げられるような奴だ。人間関係も仕事も全然上手くいかない。ジムのトレーナーからは愛想を尽かされ、田舎ヤクザの使いっ走りをし、密かに想いを寄せているペット・ショップ店員(エイドリアン)には相手にもされない。

上が主人公のロッキー・バルボア。
ド三流ボクサーである彼は、借金の取り立て人をして生計を立てている。
上記は「指折るぞ!」と滞納者を脅すロッキー。しかし実際には指を折りはしない。
何とも中途半端な奴なのだ。

しかし、そんなロクデナシにチャンスが舞い込んでくる。世界チャンピオンのアポロ・クリードが対戦相手に指名してきたのだ。アポロは近々防衛戦を行う予定だったが、対戦相手が怪我で欠場。代役を探すも、準備期間があまり無いため、引き受けてくれる選手がいない。そこでアポロは一計を案じた。アメリカン・ドリームを全面的に打ち出して、無名選手と自分が戦う、というアイデアを思いつくのだ。この企画をプロモーターが面白がり採用。“イタリアの種馬”という二つ名を気に入ったアポロはロッキーを指名した。

思いがけない大舞台へのチャンスにロッキーは一念発起してボクシングの練習に打ち込むようになる。早朝に起きて生卵を飲み下し、ランニングに出かける。吊り下げられた肉をぶっ叩いてパンチの感覚を磨く。始めは苦しいが、不思議なことにボクシングにのめり込めばのめり込むほど、人間関係がうまくいくようになる。トレーナーのミッキーと和解し、親友のポーリーと仲直りし、想い人のエイドリアンとは恋仲になれた。ロッキーも熱に浮かされたようになり、「やってやるぞ!」という心境に呼応するように名曲「Gonna Fly Now」が流れる。

説明不要の超有名シーン。
早朝ランニング中に全力疾走をブチかますロッキー。
映像の疾走感と音楽の盛り上がりが堪らないシーン。

しかし、試合前日になってロッキーは唐突に気付いてしまうのだ。“チャンピオンには勝てない…”と。向こうは才能があるし、自分みたいにサボらずにずっと努力して奴だ、勝つことは俺には無理だ。だからロッキーは勝つためでなく、自己の証明のために試合に臨んだ。彼は最終ラウンドのゴングが鳴るまで、いくらメタクソにされようとも絶対に立っていることを誓ってリングに上がる。クソみたいな人生だったかもしれないが、俺は絶対にノックアウトはされない、最終ラウンドまで立ち続けることで、俺がクズじゃないことを証明してみせる、俺は自分の人生に負けなかった、と。勝ち負けを超越したところで死闘を演じるロッキーの姿は崇高だ。
その結果、どうなったか。ロッキーは世界チャンピオン相手に最後まで立っていることができたのか?人生を清算することができたのか?この記事を読んでいる人なら、もう知っていると思うので省くことにする。

試合前日に勝てないと悟るロッキー。
勝ち負けを超えた先にあるのは、自己の証明なのだ。

ボクシングをきっかけに人間関係が回復し、自身の人間性も治癒され、良い方良い方に転がっていくのがロッキーという映画の構造だ。物語はアポロ戦に向かって収束していき、最終的に観客には大きなカタルシスが与えられる。

 

『レスラー』の場合

『レスラー』は、割と珍しい(アメリカン)プロレスを題材にした映画だ。プロレスを扱った映画が少ないのは、おそらくプロレス自体にストーリーが織り込まれているせいだと思う。プロフェッショナル・レスリングとして、“銭金の取れる試合”をするプロレスラーは、ベビーフェイスとヒールの役割分担をし、試合にストーリー性を付与する。ストーリーは試合で描かれているので、わざわざ映画でやる必要がないのだ。

主人公のランディは、落ち目のロートル・レスラーだ。ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンとして一世を風靡した時代もあったようだが、今は地方で行われる土日の興行でしか試合がない。客入りが悪く、ギャラも安い、体にもガタがきている。レスラー仲間からは尊敬されているが、平日はスーパーで裏方のバイトをし、トレーラーハウスの家賃にも事欠いている始末。楽しみといえば、ストリップ・バーへ行って個室ダンスを踊ってもらうことぐらいだ。

主人公のランディ(本名ラムジンスキ)。
上はトレーラーハウスを締め出されて途方に暮れている図。
レスラーとしての彼は優秀だが、実生活においてはそうではない。

そんな彼にも転機が訪れる。ロッキーのような幸運を掴むチャンスではない。彼は試合後に心臓発作を起こしてぶっ倒れたのだ。心臓のバイパス手術をしたランディは、医者から「プロレスをしたら(激しい運動をしたら)死ぬぞ」と宣告される。

プロレスを奪われ、否応にでも身の振り方を考えなければならなくなったランディは、人間関係にけじめをつけ始める。プロレスを引退し、疎遠なっていた娘に会いに行く。ほとんど捨て子同然の扱いを受けていた娘の反応は冷ややかで頑ななものだったが、ランディは根気強く誠実に接触し続け、遂に和解の糸口を掴むことに成功する。また、パートをフルタイムに変更し、イメージが崩れると言って避けてきた売り場での接客にも挑戦する。ストリップ・バーで懇意にしていたキャシディにアプローチをかけ、デートに誘うことにも成功する。

娘に懺悔するランディ。
自己中心的な人生を送ってきた男が、初めて肉親に歩み寄る様は感動的だ。

しかし結局、全て台無しにしてしまう。なぜなら彼はどうしようもないクズだからだ。脈なしとわかった途端にキャシディを売女と罵り、我慢しきれずに嫌味な上司を突き飛ばしてバイトを辞め、娘との約束をすっぽかして今度こそ完全に絶縁される。しかも娘との約束は、後輩レスラーと酒場へ繰り出し、さんざん酔っ払ってエッチなお姉ちゃんとキメセクをした挙げ句、寝過ごしてしまったためだ(しかも酒代は後輩のおごり)。どうしようもない。

ここに至って彼はようやく気が付く。“俺にはプロレスしかない”と。自分の中にあった大切なものの火種をことごとく失ったランディだが、最後に一つだけ残ったものが“プロレス”だった。父として社会人としての彼はクズだが、プロレスラーとしての彼は違う。ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンはギリギリまで相手の攻撃を受け続け、限界を超えた先の勝利を掴み取る英雄なのだ。終盤彼はキャシディに言う。「俺にとって辛いのは現実の方だ。もう行かなきゃ。みんな(観客)が待ってる」。彼の本当の居場所は現実ではなく、彼の愛したプロレスのリングなのだ。現実逃避だと言われればそれまでだろうが、我々だって日常がつまらないから映画を観るわけだろう。そんな捻くれた観客に、ランディは「もうおねんねしなよ」と、死ぬと分かっていながらロープ最上段から急降下でボディ・スラムを仕掛ける必殺技“ラム・ジャム”をお見舞いするのだ。

キャシディの方向を見るランディ。が、キャシディはいない。
彼は覚悟を決めて必殺技の体勢に入るが、ラム・ジャムを放てば死ぬだろう。
ラムジンスキは死に、プロレスラー・ランディは皆の記憶に残る。
虚像が実体を超え、偶像となるのだ。

コインの表と裏

この2つの映画は、どちらも大試合に向けて物語が収束していくが、そこに至るまでの経緯は異なる。
『ロッキー』は、“ボクシング”に誠実に向き合うことに比例して、人間関係がどんどん豊かになり、最終的に試合で自己の証明を達成するという構成だが、『レスラー』では自身を取り巻く人間関係が全て破綻したときに、最後に残った大切なものが“プロレス”で、主人公がプロレスに殉じるという構成だ。一方は人間関係が膨らんでいき、もう一方は人間関係が萎んでいく。奇妙に反比例した構成なのだ。

『ロッキー』はアメリカン・ニューシネマを終わらせた映画のうちの一本だということになっている。ベトナム戦争に敗けたアメリカの世相を反映した暗い映画、それまで謳っていた強いアメリカ像が真っ赤な嘘だと知らされた若者たちの反発の映画、がアメリカン・ニューシネマであるが、結末はほとんど陰惨な終わり方をする。なぜなら社会の力は強大であり、一介の若者が反旗を翻してみたところで、叩き潰されるに決まっているからだ。『ロッキー』はそんなアメリカン・ニューシネマに対して、「いや、遮二無二頑張ればアメリカン・ドリーム、掴めるかもしれないぜ?」という映画なのだ(実際にスタローンは掴んだし)。

シルベスター・スタローンは『ロッキー』一発でアメリカン・ドリームを掴んだ。
それまで生活のため嫌々ポルノ映画に出て、50以上のオーディションに落ち続けた男が
アメリカン・ドリームの体現者となったのだ。

対して『レスラー』は、自分はロクデナシだし、人生はロクでもないものだと認めた上で、でも自分にはプロレスがあってまだ良かったよな、と思いながら死んでいく映画なのだ。映画の中で人間が死ぬ条件の一つに、人間関係の束が全て切れたとき、というものがあると思う。「俺に引退しろと言えるのはここにいるファンだけだ!」と、終盤にランディは叫ぶが、それは“レスラー”という仮面を被った上での発言であり、仮面を脱いだ“ラムジンスキ(本名)”としての彼には何もない、薄っぺらな存在なのだ。自分を捨てて“レスラー”として生き、そして死んでいく彼の姿は崇高である。なぜなら我々だって違う人間になりたい、変わりたいと思う心があるからだ。理想化した偶像のまま死んでいくランディは、表面上は幸福なのかもしれないが、観客はその裏側の悲惨な日常を知っている。そこに自分を重ねるから感動が生まれるのだと思う。

想い人のキャシディと最後の会話を交わすランディ。
現実世界ではただのクズだが、リングに上がれば彼はスターなのだ。
皆さんがランディの立場なら、どちらを選ぶだろうか?

終わりに

ボクシングで自己実現を果たし、人間関係も豊かに膨れていき、これからの活力に満ちた生活を予感させる『ロッキー』と、主人公を孤独へと貶めていき、お前という存在は何なのだ?と、内的な問いを常に主人公に突きつけ、最終的にプロレスによる自己実現に収束していく『レスラー』。

お互い競技によって自分を表現しようとする男の物語だが、物語の組み立て方が違うだけでこうも印象が変わるのだなと、ふと思ったのでこのような記事を書いてみた。だから何だと言われればそれまでだが、このようなことを考えながら映画を見たり、鑑賞後に考えたりすることは結構面白いことなのだ。だから許していただきたい次第である。

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