楽曲エッセイ#3 百年/理芽(笹川真生)
「百年後のイヤホンが欲しい もう少し静かに鳴るだろう」
昔からSF小説が好きでよく読んでいた。漫画の影響からなのか、科学が好きだったからなのか、初めて読んだSF小説は何だったのか、どうして読むようになったのかは思い出すことが出来ない。
SFはサイエンス・フィクションの文字通り、史実を元に改変を加えたものなどを除けば、フィクションの枠から出ることはなく、現実として実在するものではない。しかし、自分にとってSFで触れるフィクションは、魔法や空想であると一蹴出来るものではなかった。
「神様はいる」と言われることに比べて、「遠くの星に知能を持った生物がいる」と言われることは、お互いに自分の触れたことの無いものという点によっては同じだが、後者には実在性を感じる恐怖や興奮が付随している。自分の受け取るフィクションとSFの感触の違いはこのような肌感覚からくるものではないのだろうか。またこれは、「どこかで誰かが飛び降り自殺をした」というような遠くにあるノンフィクションと比べても、SFの方が自分の近くにある物語であるような気がしている。「ドラえもん」のひみつ道具のような空想のものが実現して自分の身の周りに定着している現実があることも考えると、あながち間違った感覚でもないのだろうかとも思う。
だからこそ、私は未来が怖かった。私の自室の隅の本棚では、恐ろしい兵器によって戦争が起きて、シンギュラリティによって人類は機械に支配されていた。平凡な日々を紡ぐことは難しく、物語には事件がつきものであって、ことSFの舞台では凄惨な事件が多く描かれている。現実の視野の狭い幼さも相まって、自分にはその沢山の事件を脳の中の別の箱にしまいこむような、そのような思考形成が十分ではなかった。
そんな空想との肌感覚の近さを考えた時、”百年”という時間はどうだろうか。今の人類にとって百年の記録をすることも遡ることも容易であるし、生物の歴史から見ても微小な時間でしかないのであろう。100歳まで生きることだって、決してフィクションの話ではなくなっている。しかし、百年という年月は十年と比べると遠く”空想”のグループに付随していて、千年に比べると近く”現実”のグループに属している気がする。一青窈の「ハナミズキ」の歌詞で登場する「君と好きな人が 百年続きますように」のこの百年は、意味合いとして永遠を包含していると思う。ともすれば、百年という歳月は人間の手の届く範囲内の最も近い永遠、想像、魔法なのではないのだろうか。
自分が百年先のことを考える時に気になるのは科学の発展もそうであるが、それ以上にコミュニケーションのあり方のことである。成長の側面からコミュニケーションを考えれば、感情を正確に、温もりを感じるように変わっていくことを指すのではないかと思う。しかし、この百年ではコミュニケーションの成長は利便性に比重を置いており、感情の表現と温もりを判断基準とすると退化していると言えるだろう。私は工学部出身で、通信系の分野にも関わっていたこともあり、この文章にコミュニケーションの利便性の追求を否定する意味合いは含まれていない。それでも、ここまで逆の方の成長を遂げていることも珍しく、問題視されてきていることも事実だと思う。
技術の進歩は恐ろしく早く、昔の基準から判断することは出来ない。ともすると、百年後には言語というものすらなくなって、正確に人の感情を伝えることがコミュニケーションであると利便性の追求から手のひらを返して ”コミュニケーションとは拳と拳の殴り合いによって行われている”そのような未来も絶対に無いとも言えないかもしれない。
遠い未来であり、近い永遠でもある百年。その百年の先にある人と人とのコミュニケーションのあり方
言語に限界を感じた人類が、この手に感じる痛みがどんな言葉よりも正しいものであると、音楽で伝えることに限界を感じた人類が、揺れるカーテンがどんな音楽よりも根源的なものであるのだとそう感じる日が来るのかもしれない。
そんなSFがノンフィクションを追い越して自分の世界が彩られていく。
この「百年」という曲を聴いた時にとても悔しかった。
それは、この曲が、この言葉が自分のものではないこと
それとともに嬉しかった。この曲が、この言葉が自分の外側に存在していることが。
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