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さよなら、ありがとう、よいお年を

「よいお年を」

年末にだけ発生するこの特別な挨拶は、年末にだけ発生する特別な寂寥感をかき立てていく。

また1週間後に会う予定があったとしても、この挨拶を挟むとなんだかもう会えないのではというような気持ちまでしてきて、妙なさみしさと焦る気持ちと、いや、またすぐ会えるんだからと自分を落ち着かせるので感情がほんの少しぐるぐるする。


いつまでたっても別れというものに敏感で、とりわけ「もう一生会うことがないかもしれない」別れにはどうしようもなく不安な気持ちが付きまとうのだ。

それがたとえ苦手な相手であったとしても、その存在は確かにわたしの心のどこかに居場所をつくっていて、一生会うことがないと思うとその空間はぽっかりと穴が開いたようになって、すうっと乾いた風が通り抜けていく。



思えば子どもの時から、何かとさよならするのが苦手だった。

長年乗っていた実家の車を買い替えるとき、泣いて旧車にすがりついたこと。
いつも寝るときに抱きしめていたタオルを父親にとられたとき、夜中の近所迷惑も考えずに返して!!と大号泣したこと。
飼っていたうさぎの体調が優れないとき、翌日も学校があるのにひと晩中ケージの横で付き添おうとしたこと。
友達と遊んでバイバイするときだって、なるべく長く一緒にいられる方法をとろうとした。

今でもこの性格はたぶんそのままで、物にも人にも後ろ髪をひかれてばかりだ。悪いことだとは思わないけれど、もう少しドライに生きられれば楽なのかもしれないと思うことは多々ある。



今年は本当にたくさんの出会いがあった年だった。写真を撮り始めて文章を書き始めたことで、まさかこの歳になってこんなにも「また会いたい人」が増えるとは。

今年出会った人たちがいなければ、わたしはここまで楽しい1年を過ごせていなかっただろうし、これからの人生も大きく違っていたかもしれない。


なんてことを書くと照れ臭いようなむずむずするような、痛いやつだと思われても仕方ないような。でも、「また会いたい人」が増えるってすごいことだなと思うのだ、本当に。

好きも苦手もみんなで会いたいも1対1で会いたいも、もう会いたくないすら全部ひっくるめてたくさんの出会いがあった。
出かけることは元から好きだったけれど、人間関係は内輪に引きこもってばかりいたわたしにとっては、新たな輪に飛び込む勇気とチャンスをたくさん掴んだ大切な1年間だったように思う。



ぱん、と手を打つ。

物がなくなった部屋は、さみしくも美しく音が響いていく。残響が部屋の奥まで走っていって、隅っこでこちらを振り返った。

今、引越し作業と大掃除をすべて終えた旧宅にいる。

もう少しすればこの部屋ともさよならだ。


高校時代の友人とルームシェアをしたこの部屋には、さみしさと不安と自暴自棄と、他には代えようのない楽しさが間違いなくあった。
たった8ヶ月、短い時間で引越すことになってしまったのは友人に対して申し訳ないと思うけれど、ごめん、わたしは結局楽しければなんでもよかった。どこまでも自分勝手だ。

荷物も何もなくなったけれど、ここまで来てもまだ、年が明けたら新天地に行くのだという実感はあまりない。いつまでもふわふわしていて、またこの部屋に帰ってくるんじゃないかという気がして、なんだか不思議な心持ちである。



面白くなってもう一度手を打つ。ぱん。壁や床だけでなく、天井からも音が跳ね返ってきて、ピィンと降ってくる。

さみしさと不安と楽しかった思い出と、これからの生活への余りある期待をいつものリュックに詰め込んで、わたしはここを出て行くのだ。

この部屋に会うことは、もう一生ないのだろう。さよなら、ありがとう、よいお年を。玄関の鍵がわざと大げさな音を鳴らして、夜の冷たい空気に小気味よく響いていった。



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