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この気持ちを形にしたくて今日も

Twitterを見ながら日頃の振り返りばかりしているから、おそらくただ文章だけを書くなんて相当久々になるかもしれない。真っ白な原稿用紙を「何か好きなことでも書きなさいよ」と言われて差し出されても、あからさまに困惑する程度には感情の起伏を抑えた暮らしをしているけれど、思春期はそうでもなくて、誰にも見られることのない恥ずかしい詩のような何かを綴った大学ノートをせっせこせっせこ、少なくとも2冊くらいは拵えたんじゃないだろうか。中高生の恥ずかしかった思い出なんて気付けば遠い過去で、いや、もう10年以上前だから立派な過去なんだけど、とにかく10年ぶりに実家が引っ越しをするタイミングで、僕は帰省ができなくて、僕の残していた物は親兄弟が片付けてくれていた。問題は、当該の大学ノートも同じようにほったからしにしており、そっと燃えるゴミにしてくれて構わなかったのだけど、おそらく目にして、面白おかしい中身を見て呆れてしまったに違いないだろう。小汚い諸々の奥底でそれが発掘されたのを知ったのは、弟のTwitterを見たからで、余計に気が気でなかったのだが、それすらももう5年以上も前の話で、どうもこうもこんなどうでも良いことばかり覚えているものかと、改めて呆れてしまう。

結局のところこのnoteだって、先に書いた大学ノートとそう大差ないのかもしれない。思ったことを書き殴っているという意味で、だ。違いがあるなら、あえて戒めのようにインターネットの片隅とはいえ公開されるようにはなっていて、願わくば多種多様な人類の皆さまに書いたものが読まれることさえ望んでいたりする。大学ノートを拵えていた頃だって、数多のブログサービスはあったし、それぞれ更新していたような気がする、というかしていた。覚えている限りのものはとある所に集めて全て下書き状態で置きっぱなしにしてある。読み返すとどんな気持ちになれるだろうか。あんなことあったなとか、単純な振り返り以外に何を思うのだろうか。興味本位で開いてみたけど、後悔の2文字に尽きる。読むに耐えない。

自分の中で堪えきれないことが多くて、それを書き出して整理していたとするならば、余分なものと必要なものとを切り離して、必要なものだけ覚えておきたいだけの余分なものがあったということなのかもしれない。ここ数年に書いたものは仕事である程度ドキュメントを作るなど作文に慣れていたり、わざわざ文法書を買ってまで日本語の使い方を「矯正」した上でのものなので、まだ気楽に読み返せるというのはついでに書いておく。それでも書き殴っているものに文法もへったくれもなくて、それはこの記事を読めば自明だろう。というか、そもそもどうして僕はものを書き殴ることをしてきたのか。なんとなく絵が描けないのはわかっていたし、いろいろと試したけど音楽も無理だった。映像制作はやり込んだことがないけどやり込む気力はない。書き殴るのは手軽なのである。思いつきであれこれ書けば良いのだ。普段話をしなくてもだいたい頭の中では何かしらの単語、文が飛び交っていて、完全に言語に頼って生活をしているし、生活の中で何かを感じた時はそれを言葉でどう表現するのか反射的に考えているし、その考える作業においても言語を使用する始末である。これだけ言語に囲まれていて、脳はいつも一杯一杯で、少しでも余計なものを排除したくて仕方ないのだろうか。

なんとなく言語化できた何かとそれでもまだうまく言語になっていない気持ちを抱えながら、もう疲れたので一旦筆を置きます。

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