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話をしようか

習慣に則って今週を振り返る記事を書こうとtwitterを眺めていたら、今週のツイートの数が少なすぎてまとめる以前に何も書けなかった。基本的に行動の記録はツイートがベースであり、だいたい10年くらい前からのことはtwitterに書いている。逆にその他の日記などの記録は付けられていない。これまでも何度か存在しているが、ツイートがない時間は他の何かに集中しており、最近の平日はおおむね仕事というようにわかりやすい。しかし夜も土日祝もほとんど呟かないと言うことは殆どなかったのだが、ここ最近は全く触らないこともしばしばある。

ただ別に書きたいことや伝えたいことがないわけではない。思春期の頃は溢れんばかりに書き殴っていて、それほどまでの勢いこそないものの、こうして特に「何を書こうか」「どう伝えようか」と考えていないまま、なんとなく2、300文字くらいのものは書けてしまう。キーボードを気ままに指が叩いていくのに任せて、寝不足の頭の中から言葉を引き摺り出して、文章の流れをなんとなく探りながら繋いでいる。それが正しいものの書き方なのかどうかは果たしてわからない。いや、むしろ避けるべきプロセスとあらゆるハウツー本には書かれているが、この記事はそんなかしこまったものではない。インターネットの隅っこで殆ど誰も読まないような、たかだか数百文字程度のエッセイである。

そんなエッセイでも誰かしらは読んでくれていて、何かしらのコメントがついていることがあるからありがたい。自分の中身を曝け出して肯定されていると、あれこれと足りないところの多い自身ではあるけれど、なんとなく今のように生きていてもいいのかもしれないと安心できる。今、リアルで特に何か接触していて欲しいわけではないのだけれど、遠いどこかでそっとこちらのことを思い浮かべる瞬間があったら、それでいい。本当に少しでいいから。

父が子供の頃に落語家に憧れていたと昔聞いたことがある。話し方だけで物語の情景を人々の脳裏に鮮やかに描き出すのは、僕自身も何度見ても憧れる。淡々と作業をしながら裏で東京、上方双方の名人芸の記録音声を流しておき、時たまクスリと笑うくらいに聞くこともあるし、じっくり寄席で高座を見上げていることも、動画で見ていることもある。うまく話をすること、そして聞いている人を楽しませることは、話自体の面白さもあるが、やはり話し手の表現力に大いに委ねられるものではないかと思う。同じ話であっても師匠によって面白さは大きく異なるし、何より同じ話を自分が上手く覚えたとて、聞き手を満遍なく楽しませられないだろう。

前にも少しだけ触れたが、twitterのスペース機能で友人と対談形式のトークをした。あらかじめすり合わせて置いたテーマをいくつかなぞり、お互いの立場の差も織り交ぜて好き勝手なことを言う1時間半だった。一対一でこれまでやりとりしていた雰囲気というクローズなものを持って、公開の場で話をするのが新鮮な感覚だった。加えて、話していることに随時で反応があることは昔少しだけ音声配信が流行った頃を思い出す懐かしい感覚だった。その感覚が忘れられないので今も少しずつ段取りを進めている。誰かに伝えたい話を僕は、僕らはどんなふうにできるのだろうかと今日も考えている。

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