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缶ビール

外を歩くと夜風がちょうど良く小刻みに首筋を撫でる。3kmほどランニングをして500mlのミネラルウォーターを流し、少し荒い息を深呼吸で宥める。今までゲージの中のハムスターのように走り回った公園を後にして、街灯が等間隔を照らす住宅街を歩く。汗をかいて少し重くなった脚が意識しなくても勝手に家路を進めていく。耳元のイヤホンから流れるのは初めて聞いたポップスだけど、どこか聞いたことのある気がするのはキャッチーなメロディラインのせいだろうか。幹線道路まで出てコンビニに入る。客はまばらで、遠慮なく奥の冷蔵庫から350mlのアルミ缶を取り出して、買って、店から出て、プルタブをひねる。

プシュ

炭酸が立ち上がる音、ふわっとした麦の香り、全てをかき消すようにとりあえず一口飲んで息を吐く。そのために走っていたのかもしれない。

悲しいことがあったときは早めに寝るようにしている。翌日の朝に少しでもゆとりをもたせるためだ。気持ちが落ち込んでいるときは大抵何をするにも億劫だ。しかしながら経済生活を営む以上、数多くのタスクをこなして限られた1日の時間を過ごさねばならない。億劫だといって何もしない時間は無駄と言える。気持ちでは分かっていても体はうまく動かないもので、とりあえず手近なことを一つ始めてみるのがいいと誰かに教わった。こなれてきたら他のことに手を広げ、少しずつ全てを片付けていくものだ、と。おそらくその一歩を踏み出すことがかなり大事なのだ。結果は自然とついてくるとなんとなく思っているし、そうであって欲しいのだ。

人は何のために生きるかという問いがあるし、人は何故だかそれをことあるごとに問いたがる。私も同様に、自分が何のために存在し、どこに向かって生きているのかを時々考える。例えば、朝の満員電車でつり革にぶら下がっているときかもしれないし、家に帰ってきてお風呂に浸かってリラックスしているときかもしれないし、休日の昼間に自転車で海沿いをさわやかに走りながらかもしれないけれど、いついかなるときも、結局のところ答えは見えないものだと思う。問い続けるものなのだと思う。

いろいろと試したことがすべて裏目に出た故に自信を失ったときもあって、全てを投げ出したりもした。やり方を変えてみたくて、視点を変えてみたくて、あえて大切にしていたものを捨てたこともある。それが本当の意味で正解なのかはまだわからない。むしろそれが正解だったのだと、今までの時間は無駄ではなかったのだと、証明するために私は今を生きているのではないかと思う。答えが出ないことは問い続けることをやめる理由にはなり得ない。欲しい答えを証明するために問い続け、間違い続けるのが人間の営みとさえ感じている。そもそも欲しい答え自体様々な価値観に照らされて移りゆくものである上に、正しさは往々にして主観的なものだ。過去から見て正しかったことが未来からすると間違っている、というのはいくらでもあるだろう。

私はおそらく、これから先も生きる意味を問い続けて、答えを証明するために生きていくのだと思う。そしてその過程はおそらく最適なものではなく、答えというのも常に移り変わるだろう。疲弊したときは手近なものから少しずつ物事を進めていけば、それが積もり積もって一つの答えにすらなり得ると信じている。

缶ビールを開けてから、今日も少しずつ走り出す。

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