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生きることについて考えてみようと思う

私は物を書くことが得意ではない。特に長い文章が書けない。Twitterは飽きずにかれこれ10年近く続けているけれど、FacebookやTumblrのアカウントは持っているけれど、それらのコンテンツは未だ言葉より写真がメインだ。特に写真を出すさいは無駄に解釈を付け加えたくないので、写真だけ見れば伝わるように表現を心がけているので殊更に文章には力が入らない。それぞれのプラットフォームにはそれぞれの良さがあるし、noteのように汎用性の高いものであってもそれは同じで、私が思うに、文章をそのまま見せることが私にとっては良い使い方のように思える。したがって、既存のものと切り離して文章だけ書き連ねていくにあたり、改めて、生きることについて考えてみようと思った。

さて、生きることと一口に書き出してみても様々な切り口がある。よく生きるとはなんなのか、どのような生き方があるのか、または死ぬための理由づけとしての生など、軽くいくつも思いつく。先述の通り私はものを書くのが得意ではなく、ましてや長い文章が書けない。そんな私が様々な切り口で捉えられるものを書き出すにあたっては、言葉が足りないことや多すぎることが往々にしてあるかと思うので、長く暖かい目で見守っていただけると幸いだ。そして様々な考え方や書き方を試してみて、書くということに慣れてみたいと思う。ここは、noteは、私にとって生きるということを考えていく場であり、書くということに慣れていく場にしていこうと思う。

また、生きることを考えることは生き続ける存在にとって必要不可欠な行為であると思う。自らが生きることに対して自らの中で掘り下げていくことの他に、他者の生き方や社会集団のあり方を俯瞰することで、自らの生を照らし出すことができるのではないかと考える。少なくとも私は平日の日中は働きに出て上司や先輩方の中で仕事をしており、彼らの立ち居振る舞いから自らの言動を決定しているように経験から感じる。社会の動きの中で自らの動きを決定し、その決定する動きはすなわち生きている時間の使い方に他ならない。たとえ休日に旅行に出かけたとしても、行き先は自らで決めた上で単独行動をしても、旅行先を決定する誘因は誰かしら何かしらの好印象によるものだし、そこには必然的に他者との関わりが存在するだろう。このような身近な題材や問いかけには終わりがない。いろいろな書き方や考え方を試すために最適なものだと私は思う。

よって、私はいろいろな見方によって生について考えて、それを文章にしていく。この行為に終わりがあるとするならば、文章表現に対して一定の自信を持てたときか、ないしは私自身が傷病などによって何も書けなくなるときか、あるいは何もかもが嫌になって投げ出したときだと想定される。今まで長い文章が書けなかった最大の要因は最後に述べた飽き性が原因である。書きやすいこのプラットフォームで、書きやすい身近な題材で、今までの飽き性の自分を克服しようと思う。

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