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ひきこもりと地方創生

土曜の夜の夜ふかしが極まって気がつけば朝になっていることはしばしばある。決まって日曜の午前中に予定がないのは友達がみんなクリスチャンなのかもしれないが、夕食で食べたにんにくたっぷりのラーメンのせいで到底人の前に出られなくなったので、ちょうど良かったのかもしれない。

今週は何をしていたのだろうと思い返したくてTwitterを開いたがほとんど何も書いていなかったので、恐らく何もしていない。自覚もあって、風邪をひいてなかなか咳がおさまらなかったが故に会社に行くわけにもいかず、しかしながら仕事はたまっていたので丁度昼夜となく在宅勤務にして解消させた。朝目が覚めて、眠い目をこすりながら部屋の暖房とパソコンのスイッチを入れ、寝癖もついたまま仕事して、昼休みに軽く整えて打ち合わせに参加し、夜退勤したあとはそのままお風呂に浸かって眠るしかなかった。繰り返すとそれが不思議と体に馴染み、家から数日間全く出ず、買いだめしたインスタント食品ばかり口にしていた。

ナチュラルに生活を引きこもりで縛りプレイしてみた感想としては、出来なくはないし心地よささえ若干感じられたものの、他人との対面交流にはちゃんと意味があることを理解した。同時に、なんとなくの惰性で人は簡単に引きこもりになる気がした。かつては少しのハードルだった外に出ることが、部屋の中で過ごした分だけ少しずつ大きくなっていく、その鱗片を感じた。

内閣府の調べによると満40歳から満64歳までの人たちのうち推計で61.3万人程度はひきこもりなのだという。そもそもの定義としては半年ほど就学就労と友人などとの交流がなかった状態を指すようで、例えばコンビニにご飯を買いに行く程度の外出をしていても、ひきこもりとするようである。詳しくは下記内閣府のHPをご確認いただきたい。

特に何も気にせず就学就労してきて、無職の期間も部屋の外で過ごしてきたので、人々がどのような感覚で引きこもるのかあまり考えてこなかったのだが、改めて調べてみると割とすぐそこにそのきっかけは転がっていた。そして退職したことをきっかけにひきこもる人の割合が増えている傾向を見ると、社会全体の高齢化が如実にあらわれていると認めざるを得ない。東京で何気なく暮らしていると、そういうことには気が付かなかった。

私が東京で暮らし始めて今年の6月で5年になる。実家を出てから小樽、札幌と暮らして、北海道で過ごしていた時間より東京での時間の方が長くなるようだ。これはとても悲しいことで、東京の街は好きだし、なんとか今住んでいるところを好きになろうとすることはできるものの、根本的にはあまり好きではないからだ。

この街で暮らす理由は悲しいことに手に職をつけられなかったために東京でないと単価のいい労働条件がなかったから、である。Twitterでは繰り返し呟いている気がするが、今の給料のまま札幌で働くことができるのなら、私は喜んで、今すぐにでも札幌へ行く。しかしながらその給与の水準は低く、東京の割高な家賃を考慮しても、長くキャリアを作っていくのであれば、東京で働かざるを得ない現実がある。

地方創生という言葉がいったい何時ごろ生まれて、社会の課題として認識されるようになったかはあまり詳しくないが、1970年代ごろから地方の過疎化は話題に上がるようになったそうだ。話題に上がり始めた当時は集落の維持が困難となり、行政がある程度補助を行って転居によって集落ごと放棄されたことも例が散見される。つまるところ、お金をかけてまでそれをする価値があったのだ。

ふと軽く考えてみるだけで2つのテーマの課題に触れることとなったが、普段の生活では特に気にもとめないことであることが多い。あらゆる考えをまとめていく中で、気にしていないその外側に実は注目すべきことがないか、少し自分の考え方を振り返ってみても良い気がした。

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