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毛利攻めから学ぶ、現状維持の怖さ

軍師が活躍した、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の毛利攻め三戦を今日は紹介します。

▼ 当時の常識

城攻めにおいて、籠城する側(守る側)が有利で、攻城する側(攻める側)は籠城側の5倍の戦力が必要と言われています。あくまで、前提として「兵糧が十分にあること」「待っている、耐えている間に援軍が来ること」というのはありますが、その前提であれば有利な戦場・地形などで戦えるため、まず籠城側は負けないとされています。

しかし、そんな常識をことごとく打ち破ったのが、優秀な軍師、竹中 (半兵衛) 重治と黒田 (官兵衛) 孝高を抱えていた羽柴秀吉軍です。

▼ 三木の干殺し(ひごろし、ほしごろし)

天下統一を目指す織田信長は、中国地方の雄・毛利氏を討つため、羽柴秀吉を総大将として播磨(現代の兵庫県姫路付近)への侵攻を開始します。(1577年)

当初、羽柴秀吉は播磨全域を制圧しましたが、播磨の筆頭大名格の別所長治が離反し、さらに荒木村重が裏切り、別所長治・荒木村重率いる毛利軍と、羽柴秀吉率いる織田信長軍師との戦いは長期化するようになっていきます。

羽柴秀吉は「別所長治に味方したものは兵士だろうが百姓だろうが構わず皆殺しにする」という噂をわざと流し、百姓たちまで別所長治が籠城している三木城内に駆け込ませたと言われています。

百姓も抱えて籠城した結果、兵糧は見る見る減っていきます。そして本拠地の毛利軍からの兵糧補給路をすべて封鎖し、さらに羽柴軍は周辺の米商人から通常よりも高い金額で米を買い占めました。籠城しているにも関わらず食糧が底をつき、援軍も届かない状況で数ヶ月経ち餓死者が続出した結果、別所長治は降伏しました。

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この戦いの作戦を主導したのは、軍師の竹中 (半兵衛) 重治と言われています。

ちなみに竹中 (半兵衛) 重治は陣中に36歳の若さで結核により亡くなりました。黒田 (官兵衛) 孝高は、毛利軍に長期間捕らえられた影響で足を悪くしました。

▼ 鳥取城の飢え殺し(かつえごろし)

次は鳥取城攻めです。毛利軍の吉川経家が急遽城主として迎えられた鳥取城にて、三木の干殺し同様の作戦で兵糧攻めをしていきます。

今回の主導は、軍師、黒田 (官兵衛) 孝高です。羽柴秀吉軍は、三木合戦にて既に兵糧攻めの要領を得ていましたが、毛利軍は三木合戦での敗北を活かせませんでした。またしても餓死者続出の凄惨な状況となり、毛利軍は最後には降伏しました。

サムネイルは、そんな悲劇をモチーフにしたものの、批判が殺到して2日で公開中止になった鳥取のゆるキャラ「かつ江さん」です。

▼ 高松城の水攻め

最後は、備中高松城(現在の岡山県)攻めです。毛利軍は、過去2回の戦を経て、今回は兵糧を十分に用意しました。高松城も、鳥取城や三木城同様、天然の要塞と言われ、物理的に攻めるには難しい城でした。

またしても、軍師、黒田 (官兵衛) 孝高の考案ですが、今度は水攻めを行いました。高松城付近はとても水はけが悪い湿地帯だということがわかり、300m程の箇所を付近の土で盛って堰を築いたことで、梅雨の時期後に雨水がどこにも流れず、高松城は完全に水没したと言われています。

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毛利軍には、戦においては毛利元就を超えると言われる猛将の吉川元春を有していましたが、水攻めにより地の利は完全に羽柴軍にあったようで、毛利軍は手も足も出せない状況となりました。

最終的に、羽柴軍と毛利軍は和睦を結び、戦は決着をみました。

これらの戦で学ぶことは、「籠城戦など今までの常識や、現状維持や保守的な考えに固執することで、革新的な事柄についていけず、結果として身を滅ぼしうる」ということです。しかも怖いのは、「身を滅ぼしうる危機的状況に陥ってからでは遅い」ということです。

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