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あなたはモノではなく出来事です/『時間は存在しない』という本をよんで

「ぼくはいつ死ぬのだろうか」

と、幼少期に1人、ベットで怖がったことがある。というのはよくある話で。そんな幼少期から時を経て、そもそも

「自分ってモノじゃなかったんだ」

ということを学んだ。

こんなファンキーな世界観(というか現実なのだけれど)を教えてくれたのはカルロ・ロヴェッリというループ量子重力理論の研究者が書いた『時間は存在しない』という1冊の本だった。

そもそも前回の投稿で書いた通り、ぼくは建築と時間の関係に興味がある。でも「そもそも時間って何だろう」と考えるとなかなかに難問だ。そんなとき「物理学の世界では時間はどのように考えられているのだろう」と思い手に取ったのがこの本。第1部の"時間の崩壊"では、アリストテレス、ニュートン、アインシュタインの3人を軸として時計によって一定に刻まれるような時間など存在していないことを。第2部の"時間のない世界"では、時間は出来事の関係性でしかないことを。第3部の"時間の源へ"では、そんな時間のない世界で人間が生きるということはどういうことかを、物理学者にもかかわらずとても哲学的で詩的に教えてくれる。

そんな中でも印象に残ったのが以下の文章。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのか。原子なのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語範囲にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。p100

そして、極めつけは

人間はどうだろう。むろん物ではない。人間は、山上の雲と同じように、食べ物や情報や光や言葉などが入っては出ていく複雑な過程であり……社会的な関係のネットワークの1つの結び目、化学反応のネットワークの1つの結び目、同類の間でやりとりされる感情のネットワークの1つの結び目なのだ。p100

「人間はどうだろう。むろん物ではない。」という1文はかなりショッキングに思えるけれど、これがこの世界の現実のようだ。青空に浮かんでいる雲も、詳しく見てみてみれば水蒸気の塊でしかないように、わたしたち人間も、詳しく見てみると小さな小さな出来事が連鎖して、ぼんやりと私たちの目に人間らしい形をして立ち現れているだけなのだ。どうやらこの世界は出来事のネットワークでしかないらしい。みんなが共有できるような時間の流れだって存在していない。

では、自分をモノとして認識し、時間が流れているように感じてしまうのは、この出来事のネットワークのどのようなはたらきによるものなのだろう。この疑問に対して、これまでアリストテレスやらエントロピーやらシュレディンガーやらを駆使して物理現象について説明してきた作者が、第3章ではポエティックのギアをマックスに入れて語りかけてくる。

わたしたちの現在は、過去の痕跡であふれかえっている。わたしたちは自分自身の歴史、物語なのだ。わたしは、ソファにもたれてラップトップコンピュータに「a」と打ち込んでいるこの瞬間の肉の塊ではない。今書いている自分の痕跡でいっぱいの思考、わが母の愛撫、さらには私を導いてくれた父の穏やかなやさしさ、それがわたしだ。思春期の旅、読書によって頭のなかに層をなしていった文、わたしの愛する人々、絶望、友情、自分の書いたもの、聞いたもの、記憶に刻み込まれているさまざまな顔こそがこのわたし。そして何よりも、1分前に自分でお茶を入れ、少し前にコンピュータに「記憶」と打ち込み、今書き終えようとしている文を作り出したのが、わたしなのだ。もしこれらのすべてが消えたとして、それでもわたしは存在するのだろうか。わたしは現在進行形の長い小説であり、その物語が「わたしの人生」なのである。p174

作者によれば、いくつかの要素の前後関係は確立されるが、すべての要素の関係が確立されるわけではない家系図のような関係性(例えば従妹は自分と同じ世代にいて前後関係がはっきりしない)のなかで出来事のネットワークが存在していて、そのネットワークを紡いでいく1つのシークエンスとして私という出来事の集まりがいるらしい。そしてその過程において他者とは共有できない自分の中にある物語としてわたしたちは時間を感じている。作者は問いかける。

どうか考えてみていただきたい。わたしたちが内省する際に、空間やものがないところにいる自分は簡単に存在できたとしても、時間がないところにいる自分を想像することができるものなのかを。p185

つまり、想像するという行為が頭の中に熱を発生させる不可逆な物理的現象であり、その想像するという出来事自体がわたしなのだ。

この物理学者の壮大な文章から、あらためて建築と時間の関係性について考えてみる。時間的な豊かさを醸し出す建築とは何だろう。この文章を読んでから考えてみると、時間的に豊かな建築とは、太古から今までのありとあらゆる出来事を結びつけていく場なんじゃないかと思う。

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たとえば、ふと見下げたときに笑顔でお茶を楽しむ人影に気づき。窓の外にはその土地の陽ざしを受けて光合成し、青々と育った植物を感じ。先に見える開口部にそこを歩く未来の自分を想像し。青空を見上げることで地上から空が見えるまでの過程を改めて振り返ることができるような、そんな出来事と出来事の幸せなつながりを生むような建築をどう設計するかについて考えることが、時間的に豊かな空間を作ることにつながるのかもしれないと1冊の本を読んで考えた。

*「時間は存在しない」カルロ・ロヴェッリ(NHK出版)

*「Mimesis Art Museum」アルヴァロ・シザ

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