"「愛」するための哲学"に学ぶ、 44歳からのリバランスのすすめ
10代のころから哲学、という言葉の響き(音感)に、漠然と惹かれる自分がいた。どれぐらい惹かれていたかというと、高校の社会科選択科目で迷わず「倫理/政経」を選んだ程度にだ(そう。大したことはなかった)
日本史や世界史にくらべてあからさまに人気がなく、おじいちゃん先生が繰り広げるけだるい午後の「アキレスと亀」の話に、夏の教室の時空はゆがみ、生徒の99%が深い眠りについていた記憶だけが今も鮮明にまぶたに浮かぶ。
「アキレスは亀に追いつけない」
俗にいう"ゼノンのパラドックス"に、「ほんまやんけ!」と目が覚めた。現実世界に当たり前のような顔を決め込み転がっている「わかったような、しかしやっぱりわかってないこと」について、自分の認識なんてものは実にあやういのかもしれないと認識した初めての体験だった。
(参考)アキレスと亀
https://ai-trend.jp/basic-study/special-feature-article/achilles/
一方で、どこまでも分解することをその手段とし、この世界のしくみをわかろう(≒分かろう)とする自然科学の道に舵をとった。生き物自体に興味があったからだが、それ以上に「これからの時代、遺伝子、くるで…」という、うすっぺらい動機から志した応用生命科学(DNA工学)の道。
そのうすっぺらさを自ら証明するかのごとく、浪人までして入ったその学部とは別の授業で出会ったハイパーテキストマークアップランゲージ(当時はHTMLを手書きして原始的な自己紹介ページをつくってみよう!がパンキョー情報処理授業の初歩のお題だった)とインターネットにぞっこんにハマったのは1996年の秋だった。
電話回線でつながったスローなネットワークは、いつしか自身の断片化された「過去の好き」までもつなぎあわせてゆく結果となり、広告会社に新卒入社した自分はデジタル原始時代の屯田兵生活へと突入した。以来デジタルコンテンツにかかわる仕事を20年あまり続けたのちの2020年末、会社員でいることを終了し自身の会社をスタートした(社会人サバイブの糧となった大充実のデジタル原始時代の営みについてはどこかでこってりと書いてみたい)。
20年勤めた会社を出た理由は明快で「違うやり方を試さずにいるのは自分らしくない」と思ってのことだった。
そんなタイミングでふと出会ったのが表題の書籍。
著者についての事前知識もなく「ほほう、超訳ニーチェの人か」ぐらいに知ったかぶりしつつ手にとったこの本。
これが実に、大いに、魂をゆさぶりたおしてくれる内容であった。
〜「愛」することは、自分を生きること。〜
シンプルすぎるとも言えるこの行動を、いかに人間誰しもが、できていないことか。
目に見えている(ように思い込んでいる)常識やルール、社会規範まで含め、我々にぴったりとはりついた「正しいとされ、善きものと信じられている価値の基準」。
自分自身の生き様とぶつかり合うレベルでこれらと向き合い、疑い、がっぷり四つに組むことで「生命のリアリティ」に打ち震えながら毎分毎秒をおくるような体験がない限り(思案する隙が与えられないぐらいの、いわゆるよほどのピンチでもなければそんなことにはならない)、誰かから吹き込まれたり空気を読んでみずから悟ったセオリーの上でうまいことやるスキルを高め、結果として"あるべき"を演じ続けてしまう現代人。
無意識のうちに蓄積したゆがみはいずれ何らかの形で解消されることをもとめ、対象物に没頭する経験を介して本来のバランスを取り戻す。
そうだったのか。
だから30年ぶりの釣りに心が向かったのか。
確かに何も考えず、全力で没入した(正確には考えている余裕がなかった)
そこにはコントロールできる筋書きも、勝ちパターンも、ましてやゴールすらもない。あったのは本物の経験と驚きの発見だけだった。
で、何があったのよ?というお話。
ことの真相を、半年前の「あの夜」を一部始終詳述いただいた以下の手記に委ね、中締めとさせていただきます。
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