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保育園の迎えはZだったりスカイラインだったり。

養子として引き取られ伯父の家で過ごしたのは、おそらく3歳から4歳ぐらいの間までだったと思う。鹿児島市内の幼稚園に1年ぐらい通わせてもらった後は、田舎の祖父母の家にあずけられて、そこから保育園に通っていたから。(その頃はまだ郡。田舎過ぎて保育園しかなかった。)

なんとなく記憶に残っているのだが、市営住宅の2階で腕立て伏せ(「体力作り」の名目で何かしらのノルマを課せられていた)をやっていた時に下の階から呼ばれ、そのままよくわからないうちに車に乗せられて、祖母の家に連れて行かれた。

おそらくその時が、当時「お母さん」と呼んでいた伯母の限界が来た時だったのだろう。「もうこれ以上、他人の子の面倒をみるのはたくさんです。」と。

その時はよくわかっていなくて、「ばあちゃん家に泊まりに来た」ぐらいに思っていたんだろうが、小学校に上がるまではそこで暮らすことになった。

祖母の家は鹿児島でもさらに山奥の田舎で、麓のバス停には一日2便しか来ないようなところ。そのバス停から20分ほど山を登っていった先に公民館があり、それより先はほぼ行き止まりというような辺鄙なところだった。

祖母(ばあちゃん)は孫が可愛いからか結構甘やかしてくれたので、それまでよりははるかに平和な日々がやって来た。
髪をうっすら紫に染めて色の入った眼鏡をかけたばあちゃんは、小柄だが大きい声でよく喋る明るい人だ。うちの実父を含む男五人女一人の子をもうけ、そのほとんどが派手好きでおしゃべりな兄弟だったから、きっと祖母に似たのだろう。

対照的に祖父(じいちゃん)は、かなりの堅物。田んぼは人に任せて、近くのコンクリート会社に勤め、晩酌に焼酎(さつま白波)のお湯割をコップ一杯だけ飲むのだけが楽しみだったような真面目一筋の人だった。

古い鹿児島男らしく「ギを言うな!」というのが口癖で、孫にもわりと厳しかったように思う。「議を言う」というのは「意義を唱える」の意味で、つまり「文句を言うな!」と問答無用で一喝することが多かったということ。

憶えているのが、当時の自分がじいちゃんに「ギを言うな!」と言われたので「『ギ』って何?」と尋ねたところ、「そいがギやっどが!」とさらに上回る剣幕で一喝されたこと。(「文句を言うな」と言ってるのに、それに対して「それって何?」と口答えするのが、それこそ「議」なんだ、という意味。)なんで怒られたのかわからないまま理不尽な思いがしたので、なぜかこのことはよく憶えている。

その時その祖父母の家には、自分の実父の弟夫妻が同居していた。うちの親父は6人兄弟の5番目だったから、その弟はばあちゃんからすれば末の息子。自分にとっては伯父さんだけど、当時彼はまだ20代だったから「兄ちゃん」と呼んでいた。その彼の若い嫁さんとの間に第一子が生まれた。それもあって、しばらく実家で暮らすということになったのだろう。

その嫁さんは「弟だと思ってかわいがってね。」という感じで自分にも優しく接してくれていたが、だんだん我が子と同じようには扱えなくなってくる。

2世帯同居の中で、自分だけが浮いた存在だったので、幼心にも居心地の悪さを感じていたんだと思う。


そんなある日、祖父母の家に親戚一同が集まる機会があった。それこそ盆か正月か。

長テーブルを出して座布団を並べた大広間に、山奥の実家まで家族を連れて車でやってきた兄弟たちが集う。

その時、宴席の中心にいた若い男の人の前に自分を連れて行って、ばあちゃんが「ほら、パパだよ。」と言ったんだったか。

3歳ぐらいまでは実父実母と一緒に暮らしていたはずだから、「この人だあれ?」ってな感じになってはいないと思うんだが、その時の記憶ははっきりしない。

久しぶりに会えて嬉しかったのか、戸惑いがあったのか。

この人がパパだと言われて、今までお父さんお母さんと呼んでいた人は何だったのか、すぐ飲み込めたのか違和感があったのか…それすらもよく憶えていない。

今思えば、その時が「出所祝い」の宴席だったのだろうね。

「おつとめ御苦労様です!」ぐらいのことが言えたらよかったんだろうが、なんせまだ5歳ぐらいだったから。


その時に直接聞いたのか定かではないが、「じゃあ、ママは?」という話になった時に「交通事故でもう死んだ。」と聞かされたはずだ。そしてなぜかそれを疑うことなく、その後の生活環境の変化を受け入れていくことになる。

ちなみに真実を知ったのは、もう高校を卒業して上京してからのこと。

東京で美容院をやっている伯母がいるのだが(親父の6兄弟のうちの唯一の女性で上から2番目の長女にあたる)、訪ねて行った時になにげに「今からでも本当のお母さんに会いたいという気持ちはあるね?」と聞かれて、「え?…そりゃ生きてるなら会いたいと思うのかもしれないけどね。」と答えると「生きてるよ!」と。

実際は交通事故で亡くなっていたのではなく、うちの親父が塀の中に入った時にノイローゼ気味になったのか、部屋に我が子を置いたまま蒸発したのだということを知った。

その後新しい家庭を持ったのかどうかまでは聞かなかったけれど、今でもだいたいどこらへんに住んでいるかまではわかると伯母は言う。

幼い頃にそれを知っていたら、「生みの母に捨てられた」という事実がさらに一個重しになっていたかもしれないが、もう成人も近くなってから今更という感じで知ったので、特にショックは受けなかった。

むしろよく今まで「どこかで生きているんじゃないか。」という可能性について全く考えないで生きてきたなと、我ながら感心したものだった。


とにかく、5〜6歳の時に実の父と再会。その日以降、保育園の帰りを父が車で送ってくれることが度々あった。

朝は近所に同い年ぐらいの子がいる家のお父さんが軽自動車で保育園まで送ってくれた。近道なのか、山の中の細い道を突っ切って行くルート。

帰りは迂回するように山の周りの比較的広い道路に出るルートで、同じ保育園に通う数人と集団下校のような感じで歩いて帰っていたと思う。

その広い道路の脇に車を停めて、帰ってくる子供たちを待っていてくれたのだ。

今思えばそんなに頻繁に買い換えるお金があったのかと不思議だが(知り合いの車を借りていたのかもしれない)、車がフェアレディZの時もあったし、スカイラインだった時もあったと記憶している。いずれにせよ、当時の鹿児島の山奥の田舎で走ってたら目立ったであろう、いわゆるヤン車の部類に入るだろう。

でも子供からしたら、周りじゃ軽か軽トラしか走ってないようなとこだったから、スポーツカーで颯爽と現れるうちの親父がさぞカッコよく見えたことだろう。

はしゃいで喜ぶお友達も一緒に乗せて、スカイラインをかっ飛ばす自分のパパをちょっと自慢したい気になったものだった。

それが、しばらく離れていた我が子との距離を詰めようとする、父なりの気遣いだったのだろう。

まんまとその手に乗せられ、父に懐いていったであろう当時の自分。そこからしばらくはまだ祖父母の家で暮らしていたはずだが、おそらく小学校に上がるというタイミングで父に引き取られることになった。

正確には親父が連れて来た女性のところに預けられることになったのだが。


初対面は祖母の家で、その時は「こいつと所帯を持ちます。」的な報告を両親にするつもりで連れて来たのか、親父の本心はあやしいもんだが、連れてこられた女性は当然そのつもりだっただろう。

「私はこの男…前科はあるけど男前だし、これから真面目に働くと言っているし(これもあくまで想像)…の妻になって、一緒に暮らすのだ。」と。

「そしてそうするからには、前妻との間のこの子(自分のことだ)の母になるのだ。」と。

その決意の現れなのか、その女性はプレゼントとして自分にランドセルを買って来てくれた。あと何かおもちゃ的な物もあったのかな。

自分としては、よくわからないけど親切にしてくれるお姉さん…ぐらいのつもりだったのだろう。

その日のうちに2人の新居となっていたアパートに連れて帰られたのかは憶えていないが、とにかく祖父母の家を離れて、また鹿児島市内で暮らすことになった。

春からはそこから小学校に通う。

ここから6・3・3で12年の暗黒時代が始まるのだった。


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