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レンガの山を運んで日当50円の話。(南米放浪記④)

「日本から一番遠い国に行ってやろう。」と、いくら思い付きでブラジルまで飛んで来たとはいえ、現地でしばらく生活するつもりだったので、拠点となるところは必要だった。

日本学生海外移住連盟(通称「学移連」)という、日系移民社会での体験実習をする学生を派遣していた組織から紹介してもらっていた、移住者で学移連OBでもあるT氏をたずねて、ブラジル北東部の街マセイオに行くことになっていた。

到着して数日はサンパウロ新聞社内のサイトーさんの部屋にご厄介になり、主に日系の方が多く暮らしているリベルダージ居住区を案内してもらった。

時差ボケもとれて、ブラジルの空気にも多少慣れてきたところで、いよいよマセイオに向かって移動。

サンパウロのホドビアリア(バスターミナル)から長距離バスで42時間。…42時間?…南米大陸最大の国ブラジルの国土は途方もなく広い。

途中、地平線に向けて一本道が延びた、周りは見渡す限り平原というサバンナ地帯の風景の中を長距離バスがひたすら走り続けた。サービスエリアでのトイレ休憩以外はほとんど座席で眠って過ごす。


T氏はブラジルに移住した後に弁護士資格を取り、モーテルを経営して財を成し、マセイオにリゾートホテルをオープンして4つ星の評価を得たという、移民の中でも屈指の成功者だ。

バイーアよりもさらに北のアラゴアス州マセイオは、大西洋のグリーンがきらめくトロピカルな観光地。自分の金で遊びに来たわけじゃないから、ビーチだビキニガールだと浮かれる気はなかったけれど、楽しい事もあるんじゃないかという期待もあった。

直接ホテルを訪ねて行ったが、ココヤシの木が立ち並ぶ中に漆喰の白が映えるタイル作りのコテージ風の建物、中庭にはプールがありプライベートビーチで日光浴もできる…予想していたよりも立派なホテルだった。

支配人室でT氏の奥様と面会し「話は聞いています。」と。「もうすぐ業務が終わるから、今夜は我が家に来なさい。」と。

その夜、他の仕事を終えて帰宅したT氏に「はじめまして。」。

過去にも学移連からの実習生を何回も受け入れているので、日本から来た若者は好意的に迎えることにしているのだろう。その夜はT氏の自宅でいろいろご馳走になる。

T氏は宮崎の出身だったらしく、「自分は鹿児島っす。」というと「おー、近いがね。」と最初は親しみやすい雰囲気だったのだが…。

話の中で「あんた早稲田だって聞いたけど学部はどこね?」と聞かれたので「二文(第二文学部)っす。」と答えたのだが、そしたら急に「なーに、僕は政経だったんだけど、二文かね。早稲田の後輩だっていうから受け入れたんだがね。政経と二文じゃ、えらい違いだがね〜。」と露骨に態度が変わったのだった。

T氏の中で、早稲田の優秀な学生が実習に来たら、自分の成功体験からいろいろ教えてやろうと楽しみにしていたところに、かろうじて入った夜間学部を中退して観光ビザでフラフラしに来た奴の面倒を見るのかと、急にしらけたのかもしれない。

翌日から、ホテルの脇にある物置小屋にベッドをひとつ運び入れて、「あんたはここで寝泊まりして、ホテルの設備保持をしてる大工たちがおるから、その仕事を手伝ったらいい。食事は従業員用のまかないを食うていいから。」という扱いになった。

いや、それでも十分にありがたかったっす。最初からホームステイ感覚で世話になろうなんて思ってなかったんで。こちとら3年間新聞配達の日々から逃れて来たんで、常夏の海のすぐ近くで3食昼寝付きなんて極楽みたいなもんっす。

そこから約半年、現地の大工やペンキ屋と一緒に働く毎日。ホテルの備品の机や椅子を修理したり、壁のペンキを塗り替えたり。

リゾートホテルの隣にもT氏が所有しているモーテルがあり、こちらはいわゆるラブホテルみたいなところだったが、さすが常夏の地と感心したのは、床も水まわりもなんでもタイル貼りで(そうすると掃除が楽だから)、ベッドのフレームまで左官屋がレンガを積み上げて作り、そこにマットレスをのせる…DIYのノリのようだが意外とチープな感じはしないという部屋になっていた。

いろいろな現場でやる事はたくさんあって、大工仕事は全然苦ではなかった。

しかし、数ヶ月のちに筑波大学サッカー部からの留学生・カズという自分と同い年の青年がやって来て、彼もT氏のところで受け入れてもらっていたが、彼はホテルの中でフロント業務などを体験させてもらっていたから…。

うーん、力道山がジャイアント馬場にはエリートコースを歩ませ、アントニオ猪木には苦渋を嘗めさせて反骨心を煽ったというエピソードを連想したが…違うか。

いや、別に良かったんだけど。「何でもやりますから、しばらく置いてください。」っつう身だったので。ただ、時には納得いかない出来事がありまして。


それはT氏がそれまでの住居から、もう少し職場であるホテルに近いところに家を買うということになった時。

さらに広い敷地に広い家。門扉から家の玄関まで芝生の庭が数十メートルあるような、ちょっとした豪邸だ。

そこにプールを掘ったり、広いバルコニーをこれまたレンガで仕切って、T氏の4人の子供部屋に改築するという計画が持ち上がった。

当然、ホテルお抱え大工隊の出番で、自分も彼らと一緒にT氏の豪邸建設のお手伝い。

ある時、トラックから降ろされた煉瓦ブロックの山を、素手で掴んで左官屋が積み上げている最中のバルコニーのところまでひたすら運ぶという1日があった。

汗だくで粉まみれで手は赤切れのように傷だらけになって、「はい、ご苦労さん。」といただいたのは、5万クルゼイロ紙幣1枚

5万も貰えたらいいじゃないと思うなかれ。93年当時のブラジルはハイパーインフレでデノミを繰り返し、それまでの紙幣がさらなる高額紙幣を発行することによって紙切れ同然のようになっていくという大混乱の時だったのだ。

その時でシンコミウ(5mil)…って、50円ぐらいじゃねーの!

…コーラ1本飲めやしないのよ。

さすがに額を間違ってるんじゃないかと疑ったが、その頃にはもうそういう扱いにも慣れてきてたので、「あーそーすか。オレの働きはそんなもんすか。」とやさぐれていたのでした。

でもブラジル来る時に思い描いていたのは、コーヒー農園とかで肉体労働の日々で溜まりに溜まったストレスを年に一度のカルナヴァルで爆発させて最高のカタルシスを味わう自分の姿だったので、そのための前振りとしてはマセイオでの大工仕事の毎日というのはイメージに近かったともいえる。

いずれにせよ、日本から遠く離れたブラジルでのワイルドライフに馴染むことによって、自分は少しずつ生きていく活力を取り戻しつつあった。

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