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春樹的クワイエット・ライフ

1988年、当時自分は17歳で高校2年生。

前年に講談社より刊行された「ノルウェイの森」は、上下巻の装丁がそれぞれ赤と緑のクリスマスカラーでプレゼントにぴったりだったという理由もあいまって、その年末に爆発的な売り上げを記録し、400万部を超えるという純文学としては異例の大ヒットとなった。

社会現象とまで言われたブームだったから、そういう作品が多くの人に読まれているということは知ってはいたが、それまで村上春樹作品どころか純文学の単行本を書店で手に取ったことすらない。

幼少の頃から「よく本を読む子」だと周囲の大人たちに思われていたが、「ガリバー旅行記」や「ロビンソン・クルーソー」のような児童書を何度も繰り返し読んで妄想にふけっていたぐらいで、小学生以降はもっぱらマンガ。図書館の本を片っ端から読破するような本の虫だったわけでもなかった。

中学生の頃は、音楽を聴くことの楽しみを知って、ダブルカセットのラジカセで友人に借りたテープから好きな曲だけをダビングして、マイフェイバリットのテープを作ったりする作業に熱中していた。

たまに文庫本を買って読むこともあったが、朝日ソノラマ文庫の加納一郎先生の「是馬・荒馬」シリーズを娯楽として楽しんでいたぐらいだった。

加納一郎

高2の同じクラスに、その学校の唯一の文芸部員として知られていたアリシマ君という子がいた。

彼は現代アメリカ作家を中心に読むという、自分のスタイルを持った読書家で、仲良くなったのは「ビリー・ジョエル」の2枚組ベスト盤のCDを借りて、その歌詞世界についていろいろ教えてもらったのがきっかけだった。

彼は実家が遠方のため、学校のすぐ近くで下宿生活をしていたので、放課後に彼の部屋に遊びに行くようになったのだが、確かその初めての訪問の時だったと思う。

ひときわ目立つその赤と緑の二冊が目にとまり、「ああ、これ今すごい売れてる本なんでしょ。」とアリシマ君に尋ねる自分。

「『ノルウェイの森』まだ読んでないの? 実は自分がアメリカ文学を読むようになったのも、村上春樹の影響なんだよ。」と彼は言う。

「よかったら貸してあげるから、読んでみる?」という申し出をありがたく受けて、とりあえず赤い上巻を借りて帰ることになった。

活字だけの本、しかも上下巻の長い小説なんて読み通せるかなあ…と思いながら読み始め、最初その文体に慣れるまでに時間がかかったが、なんとなくその文体のリズムが掴めてくると、驚くほどに読みやすくて、途中からページを捲る手が止まらなくなった。

後日、下巻も借りて読み通すと、思春期の絶望や恋愛の葛藤、未だ何者でもない自分に対する無力感などを抱えた主人公にすっかり感情移入してしまい、何とも言えない切ない気持ちになった。

あと、それまで性描写の多い小説を読んだことがなかったので、妙に興奮してドキドキしていたのが、その読後感とセットになって記憶されている。

ちょうどそういう思いを抱えていた17歳の時に、リアルタイムで刊行された作品に出会えたことが決定的な体験となって以降、村上春樹作品を読み漁るようになった。

同様にアリシマ君から、発売されたばかりの「ダンス・ダンス・ダンス」も借りて読み、遡って「僕」三部作の文庫を自分で買った。

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだ時は、内的世界と外的世界を交互に書くというその手法にまず驚かされたし、物語のスケール感とスピード感が一気に増した作品の完成度の高さに圧倒された。

自分が鹿児島から上京したのは90年代初頭。長編としては「国境の南、太陽の西」まで新作が出るまでに4年ほど空いたわけだが、その間に過去作は短編、エッセイ、翻訳も含めて全部買い集めていた。以後、発売日とほぼ同時に新作を買いに行くようになったので、村上春樹読者としては理想的な手順を踏んでいるのではないかと自負している。

これが例えば今現在自分が10代20代だったとして、テレビのニュースで「1Q84」が発売前日にカウントダウンされる様子を観たりしていたら、手に取って読んでみようと思わなかったかもしれないし、「流行ってるからいちおう読んでみるか」と読んでみても、いまいちピンとこなかったかもしれない。

ちなみに「僕たちハルキストでーす!」と仲間で集まって書店に並んでいる人達がテレビに出ているのを見るたびに、「彼らは春樹作品の何をどう読んできたのだろう?」と不思議な気持ちになる。自分は特に初期作品からは「孤立することを恐れない」という教訓を得たような気持ちでいたので。(なぜ、つるむ?)

映像化作品の原作本とかしか読んだことがなく、「誰がどうしてどうなった」という筋を追っていくのを「小説を読む」という読書体験だと思っているとしたら、そういう人にとって特に90年代以降の村上春樹の小説は「なんじゃこれ? 意味わかんなくね?」という反応を示すことも多いかもしれないと思う。

「羊男」だの「騎士団長」だの、よくわからないものがわんさか出てくるし、「壁抜け」して「向こう側」に行ったりして、ファンタジーなのか夢の中の話なのか、リアリティーラインもつかみにくい

「とにかくそうなってしまったのだから仕方がない」「どういうわけだか、それをそのまま受け入れた」というような「はぐらかし」も多くて、きちんと因果関係とかが明らかになったうえでの結末を求めていると、「これは一体何の話なんだ?」と戸惑うことも多いだろう。

村上春樹作品は、今までの作品とは異なる文体を導入し、人称を変えたりして獲得した新たな視点を軸に、そこからどう物語を広げていけるかという作者の試みをある程度踏まえ、そこに面白みを見いだせるかというのを読者側に要求されるようなところがある。

とにかくあの文体にハマるかハマらないかで、ファンになるかならないかが大きく左右される。

自分はといえば、「とにかくあの文体で書かれたものを読んでいられすればいい。正直、話の内容はどうでもいい。」というタイプの読者で、「これは何を意味しているか。これは何のメタファーなのか。この場面は何を示唆しているのか。」ということはあまり考えずに、ただ音楽を聴くように文字を目で追ってその文体を自分の身体に摂取する作業をしているにすぎない。

ほとんど精神安定剤を服用するかのように、何度も繰り返し同じ作品を読み返す。

刊行時に単行本で買った作品も、数年後に文庫化されたら、移動中などに読む用として買い直し、最近は老眼が進んだので文庫本すら読むのがつらくなってしまい、ほとんどの作品をkindle版で買い直した。

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こうして日常的に村上春樹の小説を読み続けていると、やはり自分の価値観や物の考え方に大きな影響を及ぼされているようだ。

 かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
 高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。
 それがクールさとどう関係してるのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。(『風の歌を聴け』より)

この文章を読んだ時に「ああ、自分も同じだ。」と強く同調した。

〈そういうものだ〉と〈それがどうした〉という言葉は人生における二大キー・ワードである。このふたつの言葉さえ頭にしっかりと刻みこんでおけば、たいていの人生の局面は大過なくやりすごせてしまう。

とエッセイに書かれているのを読んだ時も、自分もそうありたいと思った。


現在の自分のライフスタイルは、ほとんど村上春樹の小説の主人公の行動を真似ているかのようでもある。

休日は午前中にプールに泳ぎに行き、スーパーで買い物を済ませ、昼食時にもビールを飲み、ヤクルトスワローズの試合結果に一喜一憂し、夕食の準備をして妻の帰りを待つ中年男…それが私。

小説の主人公は「しばらく暮らしていくのに困らない経済的余裕」があったり、「定期的に寝てくれるガールフレンド」がいたりして、そこは都合が良すぎて羨ましいけど、そこまで望むまい。

好きな音楽を聴いて、好きな本を読んで、好きな映画を観て…それだけでいい。

華々しい成功も、めくるめく快楽も、スリリングな興奮も、迷いのない信仰も、特に要らない。

自分が望んでいるのは「春樹的クワイエット・ライフ」、ただそれだけなのに。それすらもままならない現実に苛立っている。

やれやれ。


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