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マセイオでの生活(南米放浪記⑤)

ブラジル北東部アラゴアス州都マセイオ。1993年、この街で約半年過ごした。

6月に観光ビザで入国したので、2月のカルナヴァルを体験してから帰国するには滞在期間が足りない

学移連のOBの方から、再度入国する際に申請すれば1ヵ月ぐらいの観光ビザを再発行してもらえるという裏技があることを聞いていたので、半年経ったら一旦ブラジルを出国して、近隣のパラグアイやボリビアを旅行して、カルナヴァル直前に再びブラジル入りするつもりでいた。

だから、現地で定住したのはマセイオだけだ。寝泊まりできるところと仕事を与えてくれたT氏には本当に感謝している。だって、ちゃんとした留学生でも何でもなかったんだもの。


マセイオに着いてT氏が経営するホテルで働き始めたばかりの頃、「今からコベウに行くけど行くか?」と従業員に尋ねられ、「コベウ?…何だい、それ?」となった。

よくよく聞くと「ホテルのゴミを近くの山のゴミ捨て場に捨てに行くけど付いて行くか?」ということらしい。

車で5分ぐらい走ったところにある小高い丘の上に、重機で切り開いただだっ広い埋め立て地のような場所があって、そこにホテルで出たゴミをぶちまけて帰るだけなんだが、そこで見た光景に驚いた。

近所に住む主に少年たちが一斉にゴミの山に群がって、まだ使える物やまだ食えそうな物を漁っていたからだった。

しかもそこに悲壮感は無く、むしろ宝の山を掘り出しているように楽しんでいるようにすら見えた。

「うーん、ワイルドだなあ。ブラジル。」と、現地民のバイタリティの高さを実感した初めての場面。

それを撮ったのがタイトル画像になっている一枚。たしかこれがブラジルに来て最初に撮った写真だと思う。

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1993年当時はデジタルカメラが一般にはまだ普及していなかったし、カメラ付き携帯電話なんて物も無かった。

新聞配達をしていた貧乏学生だったから、ちゃんとしたフィルムカメラなども持っていない。買って持って行っても盗難に遭うかもしれないと思い、日本から「写ルンです」を2個だけ持って旅に出た

今、手元に残っている南米滞在中の写真があまりにも少なくて、「あんな時もあったし、こんな場所も行ったのに全然写真に残ってないじゃん。」と非常に残念な思いをしている。でもまあ、仕方ない。

なので、限られた枚数の中で写真を撮る機会は慎重に判断するようにしていたはずだった。

そこでこの「コベウ」での一枚。自分的には結構衝撃を受けた場面だったのだと思う。


マセイオでの生活は、普段はホテルの隣にある物置部屋で寝泊まりして、ホテルの裏庭に大工やペンキ屋たちの作業場があるのでそこで仕事。その作業場の近くに従業員用の食堂があるので、そこで昼食をとったり休憩したり。自由時間は結構あったはずだが、あまり夜出歩くことはなかった。昼間ひたすらホテルの前のビーチで日光浴していた。

だから数ヶ月経つと、現地民と区別がつかないぐらいに真っ黒に日焼けして、短パンサンダルで平気でうろうろしていた。

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食事は毎日同じメニュー。皿に盛られたバターライスに、各々が鍋からフェジョン(豆を煮たやつ)をかけて食う。おかずにフライドチキンが1ピース。味変したい時には、テーブルの上にでかい缶が置いてあって、その中に白い粉が大量に入っている。マンジョカという芋(アフリカでいうキャッサバ)を粉末にしたものを、スプーンで掬ってサッサッサッと振りかける。粉自体にあまり味はなく、きな粉のような感じか。食感が多少変わるのと、余ったフェジョンに混ぜて練るととろみが出る。

このワンプレートを飽きもせず、ひたすら毎日食べていた。まあ、カレーライスのようなものかな。「俺は毎日カレーでも全然いい。」って言う人がいてもおかしくないように、自分の周りのブラジル人は毎日これを食べていた。

フェジョンは色がそれこそアズキ色というか紫っぽい茶色というか、あまり食欲をそそる色味ではない。味も塩気だけで、あとは豆のコク?…日本のブラジル料理店で食べられているフェイジョアーダは豚肉や牛肉が入っていて、あんなもんは御馳走だ。普段ブラジル人が食べているのは、ただ豆を煮ただけのやつ。シュラスコ?…金持ち観光客だったら、「リオのどこどこに美味しいシュハスカリアがあって…。」なんて食べ歩くのかもしれないが、それは「叙々苑の焼肉は美味しいですね。」って言っているようなもんです。


貧乏生活には日本にいる時から慣れていたので、食事にまったく不満は無かった。唯一不満なのは、コーヒー好きがたたってブラジルに来たようなとこもあったのに、ブラジルのコーヒーはそんなに美味しくないってこと。

いや、ちゃんとした専門店で飲めば、いくらでも上手いコーヒーはあるのかもしれないけれど、その頃の田舎町で庶民が日常的に飲んでいるのは「カフェジーニョ」。

ブラジル産でも良質なコーヒー豆は海外に輸出されるので、安価な豆を挽いた…ほぼ粉末に湯をくぐらせたものに、大量の砂糖をぶちこんだ甘い飲み物。これをポットに作り置いておき、おちょこのようなカップで、暇さえあればそれをちょびちょび飲む。ソーサーごと持ち上げてカップから立ち上るコーヒーの香りに「うーん、実に香ばしいねえ。」なんて言っている人はいない。

仕事中になんか間が持たなくなると、「トマ、カフェジーニョ!」と誰かれなしに薦められ、「お、おう。」という感じで小さいカップを受け取ってひと口で喉の奥に流し込む。「あ…あま〜。」自分はコーヒーは苦ければ苦いほどいい派なので、あの甘ったるいのを数十分おきに飲まされるのには、ちょっと辟易した。


週に一度くらいは、たまの御馳走。それはT氏の家で一緒に夕食をとらせてもらう時。

T氏が自分に寝床と職を世話してくれた時に、ひとつ条件があって、「あんた、その代わりうちの息子たちに日本語を教えてやってくれんかね。」と。

T氏には3男1女の子供がいたが、奥様が日系二世でカタコトの日本語のため、家庭内ではほぼほぼポルトガル語しか使っていなかったそう。

そこで週に一度T氏宅に出向き、3人の息子たち相手に1時間程度の家庭教師を務めることになった。

その子供たちというのが、当時中学生の長男はしっかり者でちょっと生意気、次男は太っちょで気のいい奴、三男はハンサムでクール、そしてその3人の兄から溺愛されている、年の離れた妹はお転婆娘…という、漫画やドラマに出て来そうなキャラクターだった。

自分も日本語教師の資格を持っているわけでもないし、手探りで「英語の構文を日本語に置き換えるとこうなるよ。」ぐらいの教え方しかできなかったが、まあ〜この悪ガキどもが人の言うことを全然聞かない。

長男なんかは完全に自分のことをバカにしてかかっていて、「おまえ何しにブラジルまで来たんだ。」「ここで何か学んで将来偉くなれるのか。」「俺は父さんの事業を継いで、もっと大きくしていくつもりだが。」みたいな、口には出さずとも(…いや、それっぽいことはきっと言ってた。ポルトガル語どうせわかんねえだろみたいな感じで)、そういう態度がありありだった。

でもまあ、形だけでも勉強の場を設けて、家庭教師の役割を終えると、「夕食はうちで食べていきなさい。」ということになるので、なかなかの御馳走にありつけるのだった。

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仕事が終わったら夜ビールでも飲みに出かけて、もっと現地でいろんな人と交流して見聞を広めるべきではなかったのか、と今となれば反省すべき点も多いが、勤務中(大工仕事)に相手してるのは、言っちゃなんだけどブラジルの田舎で肉体労働で日銭稼いでいる荒くれ男どもなのだ。

「ヘイ、おまえ○○○って言ってみろ。」とか、たぶん卑猥な言葉を言わせようとしたり、「日本の女はどうなんだ?」みたいな話しかしないから、ポルトガル語の勉強にもなりやしない。

簡単な挨拶と相槌が打てるようになったら、そこから突っ込んだ話になるわけでもなし。一時は「もうアイツらと関わるの嫌だ!」となって、せっかく地球の反対側まではるばる来たのに、物置部屋に一人こもってラジオ聞いて寝転んでいたことも多かった。

なんでブラジルまで来て、オレ引きこもりになってんのよ!


半年というタイムリミットがあってよかったのかもしれない。観光ビザがいよいよ切れるという時になって、ようやく重い腰を上げて再び南米大陸を南下し、今度はスペイン語圏の国へと旅に出るのだった。


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