『SUPER HAPPY FOREVER』パンデミックを挟む、みずみずしさと喪失感
「SUPER HAPPY FOREVER」は2つの時を結ぶ映画だ。2018年と、2023年。この5年の間に、世界はコロナ禍を経験した。
その足跡が映画の中にもいくつか残っている。閉店し荷物が片付けられた飲食店、閉館を間近に控えたホテル、どこか閑散とした商店街。この映画の主人公である佐野(演:佐野弘樹)も、そうした背景を持つ舞台と同様に、大きな喪失感を抱えている。
きれいだが、どことなく渇いた感じの海辺の町を歩く佐野。
彼がなぜこの町に来たのか、そして次々に起こすおかしな言動の理由が、観客は最初は分からない。映画が進むに連れてその謎は一つ一つ紐解かれていくが、『SUPER HAPPY FOREVER』は、この少しずつ分かっていく感覚が非常に心地良い映画になっている。
一般的に映像作品では、「状況」を理解してもらうために「説明」をする。例えば緊張感が漂う場面であると伝えるために、役者の表情や、額を流れる汗のアップ、鼓動の効果音、コントラストを付けた照明などで表現するといった具合に。「私は今緊張している」といった、直接的なセリフでも良いだろう。しかし現実で言わなさそうな言葉で「説明」しようとすると、目の肥えた観客は「説明的だ」と興ざめしてしまう。
その点で『SUPER HAPPY FOREVER』は、非常に説明上手な作品である。不思議なことに、寡黙で雄弁なのだ。
佐野が亡き妻・凪(演:山本奈衣瑠)に出会ったみずみずしい2018年の思い出と、凪を亡くして喪失感を抱えた2023年をつなぎ、その間の「変化」を、言葉少なに映像で物語る。
ごく自然なセリフから気付くこともあれば、時を跨いで同じ道を歩く佐野と凪を同じアングルから抑えたショット、名曲「Beyond the Sea」やタバコの銘柄、失くした赤い帽子など、「変化」を示唆するヒントが、存在を主張するでもなくそこかしこに静かに佇んでいる。
映画の中における2018年から2023年にかけての「変化」とは、「喪失」といっても差し支えないかもしれない。佐野は凪を失い、凪は自身を失ってしまった。2人の出会った思い出のホテルも閉館する。
そして2018年と2023年を、単純な比較で見れば「失う前」と「失った後」と捉えることもできる。そんな「失う前」の2018年で、物語のキーとなる出来事といえば、やはり「赤い帽子を失くすこと」だろう。
佐野と凪が出会ったこの時は、様々なことがみずみずしく、そして生き生きと描かれており、多くの観客はこの先の2人の幸せを願わずにはいられない。しかし同時に、その後2人がたどる道も知っている。
幸せな時間の中であっても、「赤い帽子を失くすこと」が、その先に待つ「喪失」を象徴しているように思えてならない。
「喪失」という点にばかりフォーカスしてしまったが、『SUPER HAPPY FOREVER』は、失ったことで幸せの大きさを知る、そんなポジティブなメッセージを持った映画だ。メガホンをとった五十嵐耕平監督も、SNSで「出会うことの喜びと、失われることのない愛について」描いたと語っている。それは語感のよいタイトルからも連想できるだろう。
この喪失感と多幸感のブレンドに身を焦がす感覚を、ぜひ劇場で体験してみてほしい。
おわりに
カメラが動かない、動いても非常にゆっくり、というのが、『SUPER HAPPY FOREVER』はもちろん、過去作も含めた五十嵐耕平監督の作品にある、大きな特徴の一つである。定点カメラで、1カットが割と長め。伝わる人は少ないかもしれないが、ニコラウス・ゲイハルター監督のドキュメンタリー映画みたいだと筆者は思った。
カメラが動かないので、逆に画面の中の動いているものに自然と目が行く。目が行った先で、何かに気付く。先述の、映像で「説明上手」というのは、こういった画面作りや視線誘導も、その要素の一つとなっているのではないだろうか。
美しいゆったりとした映像で、ストーリーのかけらをちょっとずつ拾えるというのはなかなか贅沢な時間である。見つけて、気付いて、反芻する。『SUPER HAPPY FOREVER』では、ぜひそんな観方をおすすめしたい。
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