石岡瑛子、グラミー賞とアカデミー賞を受賞し、オリンピックに携わる秘訣とは
石岡瑛子展。
グラミー賞もアカデミー賞も受賞して、オリンピックにも携わることができた人など、、いるだろうか。
石岡瑛子という人が、その人。
どれか1つだって叶えるのが大変で、多くのその道の人の夢なはずなのに。いずれも果たした。
戦前に生まれ、資生堂に入社したのが1961年。男性と同等の給与と仕事内容を求めた上での入社となったのだが、大和撫子的女性像が当たり前の時代。すでに時代を動かし始めている。
まあ、その後のことは、僕が語る必要もなく、冒頭の活躍など、様々な実績を残していく。
立派な図録はゆっくり読むとして、その中に、もしかしたら書いてあるのかも知れないけど、気になったのは、石岡瑛子はデザイナーになった日に、すでにグラミー賞、アカデミー賞、オリンピックの仕事をいつかしたいと思っていたのかどうか。恐らく、そうではないのではないか。
資生堂で新たな女性像を表現し、パルコの広告で世の中の当たり前を逆撫でし、そういった時代にヒビを入れ、ヒリヒリとさせ、あるのにないようにしているそれを顕在化させる連綿と続く行為が、世の中のトップランナーたちとの協働を生んだのではないかと思う。
各賞受賞など、目に見える何かの像になりたいのではなく、想像力をより広く大きくして、それを体現するために、目の前の仕事に落とし込んでいくという積み重ねだったのではないか。
夢は大事だけれども、それよりも今、何をするか、どういう実績を短期に残すかということが大事なんだなと、自分の仕事にも思いを馳せる。それがいつしか世界的な各賞や祭典という大きな仕事に繋がるのだろう。
その当時、これらのクリエイティブに触れて、心を揺さぶられたかった。斬新なものはいつか真似され、コモディティ化されて、当たり前となり、古くなる。石岡瑛子は、常に新しかったのだと思う。
コロナの時代、サステイナブルの考えやジェンダーレスが広まり始めている時代に、石岡瑛子がいないこの世界で、我々は、我々自身で何が足りていないのか気付き共有していかないといけないのだと、よく晴れた冬の空の下、寒さと共に震えた。
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