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苦しみを忘れることの切なさも受け止める

リワークスクールを利用する前、私は人生のどん底の苦しみを味わいました。生きていることも恐怖、死ぬことも恐怖。このまま部屋の中にこもりきりでいることも恐怖。毎日毎日、時間が過ぎていくごとに、段々自身の首を絞められているような感覚でした。

私がいなくなればきっと家族は悲しむだろう。友人は悲しむだろう。そんなことも頭をよぎりながら、でも私はもう何もかも終わりにして楽になりたいのだと思っていました。

そして現在。辛かった、苦しかった思い出に上書きされるように、素敵な出会いや幸せな出来事が思い出になっていきました。

ふと、私は、リワークスクールに来る前の地獄の時間を思い出そうとしました。しかし、私はあの時のリアルな感覚を思い出せなくなっていました。

きっと、元気になってきたからなのでしょう。病気になったことすら、今では良かったと思えるようになったからなのでしょう。

良かった…。でも、切ない。

今の私は、苦しみの中にいる人が欲している言葉をかけることができるのでしょうか。正直少し自信がありません。苦しみの中にいた私がどんな言葉を欲していたのかを忘れてしまったからです。

私がこれから生きていく中で、自身が再び苦しみのどん底に落ちてしまったとき、昔の私と同じような苦しみを味わっている人に出会ったとき、私はどんな言葉をかけることができるのでしょう。

自問自答を繰り返していきついたのは、「今の自分にできることをやるだけ。」という言葉。
過去の私には戻れない。でも、今のアップデートされた私から出る言葉も、考え抜いて出た言葉なら悪くないのではないかと。

相手の頭の中を想像して、とことん相手に向き合い、相手の立場になってみる。そうやって、やれるだけやって出た言葉も、きっと悪くないのではないかと。