見出し画像

「距離の回復」の回復へ

*今回は、前回同様、ロシア・ウクライナ危機について触れつつも、より私的な思いについて。
*同時に、シラス、ゲンロン、東浩紀氏の思いへの共感も含め。

【緊急企画】東浩紀+上田洋子「『ゲンロン』<ロシア現代思想特集>再読——21世紀のロシアの思想界はどうなっていたか?」 @hazuma @yuvmsk #ゲンロン220301

https://note.com/distancology/n/n7c9cc7b28fa0

前回、ロシア・ウクライナ危機についてコメントした後、さらにいろんな解説動画を探すうち、シラスで発信されていた、「【緊急企画】東浩紀+上田洋子「『ゲンロン』<ロシア現代思想特集>再読——21世紀のロシアの思想界はどうなっていたか?」 @hazuma @yuvmsk #ゲンロン220301が大変面白かった。

2017年に発行された、ゲンロン6、ゲンロン7で特集された、ロシア現代思想I、
IIを再登場させてなぞることにより、現在進行中であるロシア・ウクライナ危機の背景、どういう思想的背景から現在のプーチンロシアがあるのか、東浩紀氏、上田洋子氏が語ってくれている。

内容は、動画を見ていただいた方が早いが(有料ではあるが、これまでどのニュース番組やYouTube動画でも得られなかった情報を知ることができ、6時間1000円をはるかに超える視聴し応えあり)、個人的に、それ以上に、2017年に刊行されている、ゲンロン7に立ち戻ったことが、意義深かった。

「距離の回復」

「ゲンロン7 ロシア現代思想II」巻頭に、東氏の短いテキストがあり、このゲンロン7の位置付け、思いが記されている。

ここで「批評」とは、単なる批判を意味しない。目のまえの対立関係に巻き込まれ、現実を単純化するのではなく、複雑なものを複雑なまま、より俯瞰的かつ理論的に、ときに「無責任」かつ「残酷」な距離をもって接する人文知固有の視点、それこそを批評と呼んでいる。
(中略)
ロシア思想という鏡を使い、日本の読者と日本の状況の間に「距離」を挟み込むこと、それこそが狙いなのである。
(中略)
ぼくたちはぼくたち自身の可能性を知るために、ときに自分から距離を取る必要がある
(中略)
そして今号では批評とは距離の回復なのだと主張している。

「距離の回復」東浩紀(ゲンロン7 ISBN978-4-907188-24-5)
太字表記は筆者による

距離マニアの筆者としては、まさにこれ、と膝を打ちたくなるような言葉が並ぶ。ゲンロン7には、ロシア現代思想以外にも、いろんな特集があるが、この号に通底するテーマとして、「批評とは距離の回復」と主張している。

2017年時点での、個人的な「距離」

実際、ずいぶん前から「距離がテーマだ、距離学を立ち上げよう」と、友人に折に触れつぶやいていた自分のために、友人から、このテキストのスクリーンショットを頂戴もし、実際に書店ですぐに購入し、そうそう、やはり、時代は「距離」なのだ、と後押しをしてもらった気がした。

が、本業で、一つの大きな仕事を成し遂げつつありながら、完成の日の目を見ずに逆に若干の負のスパイラルに陥り始める、そんな微妙な時期であったせいか、気もそぞろで、正直、この、魅力的なテキストも、上っ面しか目に入ってこず、いやむしろ、無意識のうちに、真正面からぶつかることを避けるような、不思議な心理状態に陥った。

友人にも、「距離」「距離」と言いながら、20年も何も始動しない自分に呆れられつつも、海外にある自宅にも、ゲンロン7は持ち帰り、とはいえ、肝心の「ロシア現代思想II」もほとんど目を通すことがなかった。

それが今回のロシア・ウクライナ危機を機に、シラスの番組を視聴しながら、手元のゲンロン7の年表などをめくりながら、東氏の巻頭言にも立ち戻った。

引用部にある通り、東氏の試みは、「ロシア思想という鏡を使い、日本の読者と日本の状況の間に「距離」を挟み込むこと」であった。

  • 日本の読者 <ーー距離(ロシア思想という鏡)ーー> 日本の状況

そこに、近づきながら、当時の自分には、当時の事情により、自分と日本の状況の間に「距離」を挟むことが出来なかった。実は、そこには、ある意味、極めてパーソナルではあるが、2017年の自分と、2022年の自分との距離の問題が内在している。

  • 2017年の自分 <ーー距離(パーソナル)ーー> 2022年の自分

2022年、現在において、東氏が提起した「距離の回復」はどこまで実現したのか?

いや、今回のシラス動画によって、2017年の特集が突如、日本の社会にとって有益になった、という意味では、という、日本という国が抱える、それこそ当時東氏が指摘した、批評と距離の問題が、炙り出されているともいえる。

  • 2017年の日本 <ーー距離ーー> 2022年の日本

もっと言えば、

  • 2017年の日本の批評/思想 <ーー距離ーー> 2022年の日本の批評/思想

  • 「2017年の日本<ーー距離ーー>ヨーロッパ/アメリカ」<ーー距離ーー>「2022年の日本<ーー距離ーー>ヨーロッパ/アメリカ」

といった、メタ距離とでも言う、複合的な距離の問題とも言える。

無論、前回の投稿で記した通り、ロシア・ウクライナ危機にこそ、様々な距離が潜んでおり、今ここで、2017年/2022年というある特定の時期を取り上げる必然性はないのだが、東氏が5年前に発信した「距離」に対する提起を、5年という時間的「距離」と、パーソナルな状況の変化という「距離」をはさみ込みつつ、改めて、距離について、追いかけていきたい、と感じた次第。

奇妙な言い方ではあるが、「距離の回復」の回復にようやく差し掛かったというか。

人文知/人文学のありよう

ところで、今回、東氏は、シラスの動画の中で、何度も繰り返し、「こういう危機の時ほど、人文学というのが大きな意味を持つし役割を果たすのだ」と強調する。
その点について、大いに共感する。
個人的に、人文系の知見がないにも関わらず。いや、むしろ、だからこそ。

そもそも、自分としては、学問というのは、「それを学ぶことで、すぐに何かの役に立つ訳ではないが、本人が直接意識しないところで、本人も忘れた頃に、ボディブローのように効いてくる、なにかしらの知的体系」だと思っている。
すぐに役に立つこともあるだろうが、そんなところに期待はしない。

その意味でも、真面目に「距離学」なるものがあっても良いと思っている。

この先は、改めて別の投稿としたいが、距離について考えることが、

  1. 何かを発見すること

  2. 何かを作り出すこと

  3. 何かについて徹底的に潜思すること

  4. 何かを研ぎ澄ませていくことで視界を切り開いていくこと

につながると思っている。
そのための、ツールとして、ちょっと安っぽくなるが「距離学的手法」のようなものを定式化することも可能だろう。

東氏や上田氏のような、きちんとした論考には、はるかに及ばないが、とはいえ泥臭い海外での実務の経験上から、例えばプロジェクト運営というミッションにおける知恵については語れる。

それは、人文学というような知的なものではなく、極めて表層的で(!)チープで深みのない知恵ではあるが、それでも、人の役に立つ(特に、これからの社会で)、ある種の生きた知恵、だと信じている。
まるでレベルの違う観点からの、学術的背景を欠いた、あまりにも大雑把かつGeneralなテキストが目立つが、「Only Distance/距離だけ」として、投稿を続ける理由が、そこにあり、それがどこか、人文学に少しだけ繋がっている、と信じたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?