【自作エッセイ】音のない世界
雨というものは気まぐれなものだ。私は街を愛車のシクロクロスに乗ってサイクリングするのが趣味なのだが、その日も風を感じながら京都御所を横目に丸太町通を走っていた。すると空色鼠(そらいろねず)の薄曇りだった空が浅葱鼠(あさぎねず)の曇天になり、数分としないうちに滝のような雨に降られるのだ。雨合羽など持ち合わせていなかった私はたまらず自転車を駐輪場に停め、駐輪場の真上にあるファミレスに駆け込んだ。
中に入ると暖色の照明が煌々とついている。昼間の時間帯なら窓から陽の光が差し込むので、晴れていればきっと店内の照明はさほど気にならないのだろう。ただ曇天になると外は薄暗く、暖色の光が目に優しく入り込む。こういう細かいところにもきっと商売をする人間の計算された配慮が存在するのだろう。客の入りは時間帯のせいかまばらで、冷房がかかっているのか濡れた服を着せられている私は肌寒さを感じずにはいられなかった。とはいえ、窓から外を眺めても、天気予報をスマホで確認しても、目の前の土砂降りの雨がすぐにおさまる気配はなさそうである。フロアの端の二人掛けの席に通された私は仕方なくドリンクバーと軽食を注文し、YouTubeの動画を見ながら時間をつぶすことにした。
せっかくドリンクバーを注文したのだから何か暖かいものを飲もう。そうだ、いまならココアなんかいいな。私は席を立ち、ドリンクバーに向かおうとした。すると私の席からフロアの対角線側に位置する4人席に座る男女二人ずつの四人組の集団が目についた。座っている人は全員四十台か五十台で、全員がスポーティなジャージを着てラケットの柄が飛び出たリュックを荷物にしていたので、おそらく午前中にテニスでもしていたのだろう。これだけであれば気にも留めなかったであろうが、彼らは全員が大きな身振りで盛り上がっているのだ。
怪訝に思った私は動画を見るために耳にはめていたBluetoothイヤホンを外し、飲み物を取りに行きがてら何を話しているのか聞くことにした。どうせよくいる「声のでかいおばちゃん軍団」と同族の集団なのだろうと私は予想したのだ。別に注意しようとかそんな大層なことは考えていない。ただ彼らが大声で盛り上がるほど楽しい話とは何なのか、その内容が気になったのである。きっと今日の試合の話でもしているのだろうか。あるいはよくある世間話なのか。いずれにせよ、彼らはきっと彼らの世界の中で、第三者の我々には理解できるか不明な話で盛り上がっているのだろう。
するとどうだろう。あれだけ盛り上がって話していたはずの彼らの周りには「会話」がないのである。いや正確に言えば、何かしらの声は発しているのだが、音声を介したコミュニケーションを行っている様子がない、というべきかもしれない。
ここで私は初めて、彼らがしていた「大きな身振り」が実は手話のことであると理解するに至った。目の前で盛り上がっているその人たちの中にはおそらく聴覚障がいの方がおられる。そのため、声を介して会話をしても通じないのだろう。もちろん口の動きを見て相手が何を話しているのか理解する方がいるのも知識としては知っているが、マスクの着用が当たり前になっている今のご時世でそれも難しいのかもしれない。もっとも、熟練されたその素早い手捌きはおそらく数年で身に着けたものではなく、きっと長年手話を使っている方の動きなのだろう。
そして彼らの笑顔を見る限り、私が予想していた「彼らはきっと彼らの世界の中で、第三者の我々には理解できるか不明な話で盛り上がっている」ということだけはあながち外れていないようだ。音がなくても、それが声でなくても、彼らの世界の中で共通の話題について雄弁に語るさまは何も変わりがない。彼らは相手の話を聞き、そして自分も語るというコミュニケーションを高い練度で成立させている。むしろ、音を聞くことができる私がイヤホンをして自分の世界に引きこもっており、周りの情報を遮断して相手をステレオタイプにはめて捉えようにしていたのかもしれない。ものを見聞きする能力があっても、自分で能動的に見聞きしようとしなければ本質は見えないのである。そんな本質を見ない人間を心のどこかで馬鹿にしつつ、結局自分も自分の世界にこもって本質を見逃していたのだ。
外を見ると雨は小降りになっている。音のない世界で楽しく会話を繰り広げていた彼らもそれに気づき、それぞれの家路につくようだ。傘を手にしてレジに向かう彼らの姿を横目に、私はココアを手にして自分の席に戻った。世の中には、私の知らない世界がまだまだ広がっている。そしてまだまだ未熟な私でも、ちょっとしたきっかけで気づきを得ることができる。たまたま立ち寄ったファミレスで、たまたま見かけた音のない世界に暮らす人たちから、彼らの知らないところで勝手に背中を押されている。今手にしたココアを飲み切る頃にはもう雨も止んでいるだろう。失敗と反省を繰り返して、それでも明日は続いていく。そうだ、ココアを飲みきったらまた一歩踏み出そう。
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