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東日本大震災から10年。東京では何があったか。

2011年3月11日 14時46分、それは多くの人の人生を変えてしまった時刻ともいえよう。多くの人の生活を一変させ、私たち日本人の心に深く刻まれた「東日本大震災」が発災してから10年。私自身も東京で地震を経験したが、そのときの記憶は今も鮮明に覚えている。10年の節目のタイミングにあたって、震源から遠く離れた東京で何があったのか、改めて記録を残したい。

東日本大震災とは?

東日本大震災の引き金となったのは、宮城県三陸沖(牡鹿半島の東南東130km)で発生した地震であった。地震の規模を示すマグニチュードは9.0で日本の観測史上最大となり、宮城県栗原市で最大震度7、仙台から直線距離で300km以上離れた東京でさえ震度5強を観測したことからも、極めて大きな地震であったことがうかがえる。特徴的なのが「長周期地震動」と呼ばれる、長くゆっくりとした周期の揺れだ。これによって本震は東日本全域で6分間にもわたって続いた

三陸沖の巨大地震は震源が海であったことから、10mを超える巨大な津波を引き起こした。この津波が主に岩手・宮城・福島(場所によっては茨城)の沿岸部に押し寄せ、街のすべてを飲み込んだ。この一連の地震と津波によって、死者・行方不明者を合わせて約15000人、関連死を含めると22000人もの尊い命が失われた。

これだけでも甚大な被害だが、津波の襲来によって福島県沿岸にある東京電力の福島第一原子力発電所ではディーゼル電源が水没し、全電源喪失を引き起こした。その結果原子炉内の燃料の冷却ができずに暴走し、3基(1,3,4号機)の原子炉で建屋の水素爆発、2号機では格納容器が破壊された。当然膨大な放射性物質が発電所からリークし、史上最悪とも言われる原子力災害を引き起こした。

こうした一連の災害はまとめて、「東日本大震災」と呼ばれている。その凄惨な災害の様子は何日もテレビで報道され、今なお未曾有の大災害として多くの人の記憶に刻まれているに違いない。

東京でも観測された地震

ここまでがニュースや教科書で記述される概要である。では、震源から300kmも離れた東京では何が起きていたのだろうか?ここからは私個人の経験も踏まえながら、その様子を記述していく。

発災当時私は中学3年生だった。3/11はちょうど学年末試験の最終日であり(私は中高一貫校に通っていたので、中3でも通常の定期試験があったのだ)、試験が終わってそのまま部活動をしていた。全体練習が終わり、同級生と「居残り練習しようぜ」と示し合わせて準備をしていたとき、校内放送で緊急地震速報が流れた。

「とりあえずお前たち、一回外に出ろ!」

顧問の先生に言われるがまま、とりあえず校舎の外に出た次の瞬間だった。

足元から地面を突き上げるような揺れが襲ってきた。例えるなら高速運転する電車の中につり革なしで立っているようなものだ。これだけ聞くと大したことなさそうだが、私が立っていたのは揺れるはずのない地面である。そうこうしているうちに揺れは大きな横揺れに変化した。揺れはこれまで経験したどの地震よりも長く、体感でも3,4分は続いただろうか。

その時点では「なんかジェットコースターみたいだな」と冗談を言い合っており、普段起きないことに対する興奮のような感情があったかもしれない。もっといえば、「関東で大きな地震があったんだな」程度の認識しかなく、日本中が深刻な事態に陥っていることに全く気づいていなかった

首都圏の交通機関は全面的に麻痺した

その後、顧問の先生から「電車で通学している者は教室で待機していなさい」と指示を受け、電車通学をしていた私は教室で続報を待っていた。特にすることがないので、同級生とおしゃべりでもしていただろうか。この頃には東北地方に大津波が襲来していたわけだが、もちろんその事実を知る由もない。実際顧問の先生も「数日したら練習を再開すると思うけど」とおっしゃっており、その時点では大人たちでさえ事態を飲み込めていなかったように思う。

18時ごろになって、校内にいた学生は体育館に集められた。そこで先生方から、電車が都内全域で停止し、交通機能が麻痺している事実を知らされ、「親御さんのお迎えが見込めない場合は、学校で泊まることになる」との話があった。他の部活の友人にも話を聞くと、最寄り駅まで向かったものの、電車が一向に動く気配がなく、先生から学校に戻るように言われた人も多くいたらしい。

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図1 東日本大震災発災当日の池袋駅。豊島区HPより引用。

話は脱線するが、実家に帰った後で母から聞いた話によると、このとき首都圏の全ての鉄道が止まっていたらしい。母は震災の発災当時、営業のために外回りをしていた。地震がきたときには目の前数メートルのところに植木鉢が落ちてきて、命の危機を感じたと聞いた。その後駅に向かったものの電車は全面的に運転見合わせをし、駅の中で立ち往生する羽目になったらしい。駅にいてもらちが開かないと判断したひとたちはタクシー乗り場に殺到し、それでもダメだと判断した人たちは歩いて帰り道についた、というのはもう有名な話だろう。

最初にみたのは火事のニュース

ともかく自力で帰れそうにないことだけは分かったので、私は電話で実家に連絡することにした。当時は携帯の持ち込みが禁止だったので、職員室に電話を借りに行ったのだが、職員室のテレビで流れていたニュースをみて初めて事態の深刻さを知った。

先ほどの大地震の震源は東北沖で、東北地方では震度7を観測したこと、そして地震の影響で工業地帯(確か千葉・市原だったと記憶しているが定かでない)で火事が起きていることを知ったのだ。逆にいうと、私はこの時点では津波の被害について、その仔細を知るには至らなかった

実際に発災当日の緊急報道では、特に民放で首都圏の様子にも時間を割いて報道がなされていたようだ。NHK放送文化研究所主任研究員(当時)の田中孝宜氏によると、発災から最初の1時間では特にフジテレビが火災(お台場で起きたもの)に19%を割いている他、日本テレビでは41%もの時間を首都圏の報道に割いていた(田中, 2014)。ちなみに、報道内容の選別はいうまでもなく各局の判断に委ねられるものであり、その良し悪しを評価することは差し控える。

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図2 NHKと在京主要民放が発災から最初の1時間で報道した内容と地域。
田中, 2014より引用。

この世の終わりを感じた気仙沼の火災

結局実家からの迎えが来ないことがわかり、私は結局学校に宿泊することになった。学校からは備蓄していた乾パンと水が支給され、床に段ボールを敷き詰めて防災用のアルミ毛布をかけて寝ることになった。

だが考えてみてほしい。中3のガキンチョが同級生と学校で泊まることになって、大人しく寝ることなどありえようか。もちろんそんなことはなく、友達とおしゃべりをしてしばらく過ごしていた。そのうちに「今外はどうなっているんだろう」という話になった。そこである友人が、こっそりと持ち込んだ携帯電話のワンセグでテレビを見せてくれた。

そこに映っていたのは、陸上自衛隊がヘリから撮影した気仙沼市の様子だった。時刻は3/12の午前1時ごろだったか。すっかり真夜中になっているのに、火災が広がってものすごく明るい状態になっていた。周囲を焼き尽くす業火は、何もかもがれきと化してしまった街の様子を皮肉にも映し出していた。まるで焦熱地獄だ。後になってその火災が、津波によって重油タンクが押し倒され、そこに引火したことによるものだと分かった。

それまで事態の深刻さを何も認識していなかった私たちはそこで初めて、「これはとんでもないことが起きているのではないか」と実感したのである。「やべえな……」としか言えず、絶句。言葉にならないとはこういうことだろう。

津波と原発の被害が明らかに

翌朝になり、電車が動くことになったので家に帰ることになった。先生方が朝方コンビニを駆け回り、全生徒分のパンの差し入れを買ってくださった。今考えると本当にありがたいことなのだと、頭が上がらない。先生方からいただいたパンと追加の乾パン、水を持ち、私たちは帰途についた。

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図3 仙石線の車内から撮影した宮城県石巻市の海の様子。2020年3月14日筆者撮影。10年前はこの穏やかな海が牙を向いた。

そして、自宅のテレビに映った光景をみて、初めてこの災害の全容を知った。大津波が街に押し寄せ、全てを飲み込んで押し流す光景が連日報道される。あまりにも現実離れした光景で、もはやパニック映像でも見ているのかと錯覚しそうになる。だが、残念ながら現実で、確実に誰かの平穏な暮らしや、もっと言えば尊い命が奪われたことが毎日のように報道される。もちろんショックだったし、見たくないものだったことは言うまでもない。

もうひとつ、3/12から福島第一原発で異常事態が発生していることが報道され始める。個人的に一番衝撃的だったのは1号機の水素爆発だ。原発が壊れて放射性物質が大量に漏れれば東日本が壊滅するであろうことは、中学生の私でも容易に想像がついた。そんな施設で爆発が起きる光景を見て、いよいよまずいことになっているのがわかった。

全ての活動が止まった春休み

原子力発電所が全て停止し、火力発電所も十分に機能しなくなったことで、首都圏の電力が大きく不足する見込みになった。そこで首都圏で計画停電が実施されることになった。一番大きな影響が出たのは鉄道だろう。運転間隔が日中でも15-20分に1本(通常は5-8分程度の間隔である)と大幅に減らされた。

電車通学の多かった私の学校では通学時の安全を担保できるはずもなく、春休み中の登校が全面的に停止された。部活動はもちろん全てなくなり、卒業式さえも中止に追い込まれた。中高一貫校だったので中3の卒業式にはなんの感慨もなかったが、高3の先輩方の卒業式がなくなったのはとても残念だった。私のいた部活では卒業式の後で部全体の送別会をする慣習があったが、このときだけは卒業生と顧問の先生だけでお弁当を囲み、ささやかな送別会しかできなかったと聞き、切ない気持ちになったことが記憶に新しい。

また、水の買い占めが行われた記憶がある。原因は水道水が放射性物質で汚染されているといったうわさであり、2Lの水を近所のスーパーで買い占めるおばちゃんが出現していた記憶がある。かくいう私も家族に頼まれて、2Lの水を買いに行った記憶があるが。

このように、大きな被害が出た東北3県から遠く離れた東京でさえ、小さいながらも生活の変化や多少の被害が生じていた。多感な時期にあった私にとっては強烈な出来事として記憶されており、おそらく自分の人生の中で忘れることはないであろう。

災害が来たとき、私たちはなにができるか

あの災害から10年経って、私も成人になった。では、また同じような大規模災害が起きたとき、私は何をなすべきだろうか。

それは、情報を正しく収集し、正しく行動する(させる)ことだと思う。

当時の私は情報を得られなかったこともあるし、何より事実を知っても正しく行動できていなかったかもしれない。それくらい世の中を知らなかったし、精神的に自立できていなかったように感じる。おそらく自分1人だったらパニックになったり、焦っていたりするだろう。そんなときに的確に指示をくださった当時の先生方の判断力には脱帽するばかりだ。

現在、そう遠くない将来に南海トラフ地震が起きると言われている。もちろん起きないのが一番いいのだが、もし起きてしまったときに正しく事態を把し、まずは自分がきちんと生き残ることが大切なのだと思う。大災害にあっては自分が生き残ることですら難しいのだから。そうして生き残った先で、今度は仲間を助ける。それが責任ある大人の行動である気がしている。あの災害から10年。ただの過去で終わらせず、教訓を学び取ることが肝要なのだろう。

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