理想の学校は①

私は子どもが大好きで
教員の仕事をしています。
「みほちゃん、本当先生って仕事天職だよね。」
ってよく言われます。

大変なことも多いですが、
子どもの笑顔が見れると
どこまででもがんばれます。

今年で11年目。
聾学校、小学校、中学校と
いろいろな学校で勤務し、
沢山の子どもと関わってきました。
沢山の先生方や保護者とも関わってきました。

いいことも悪いことも
苦労することも挫折しそうなことも
いろいろとありましたが、
子どものために
私のできることを一生懸命やってきました。

でも
いつも心のどこかで、
「このままではいけない」
と言う気持ちがありました。

絶望感というか、虚無感というか
モヤモヤした不安のようなものに
不意に襲われるのです。

テレビをつけると、
いじめ、子どもの自殺、教員の不祥事など
教育に関するニュースで
いつも賑わっています。

お偉いコメンテーターさんやら
専門家や政治家の皆さんが口々に、

・生徒に寄り添うことが大切だ。
 もっと生徒とコミュニケーションを取って。
・教師が学ばないから、日本の教育は進歩しない。
・勉強しろ!はナンセンス。勉強の面白さを伝えるのが大切。
 面白ければ、生徒は勝手に学ぶんです。
・成功体験を積ませてあげましょう。スモールステップで。
・人間力をあげないとね。生徒ももちろん先生も。
 道徳の授業に力を入れてみて。
・先生たちは頑張っていますよ。ただ、・・・
・生きる力をつけさせましょう。
・心優しい子どもを育てましょう。

文句やら注文やら、素晴らしい理想論を語ります。

そういう言葉を聞いても、
頑張らなきゃって思えない自分がいます。

「そんじゃあ、お前がやってみろよ!
 このヤローーーーーーー!!!!!」

と素直に口に出てしまします。
あまりにも現場を知らなさ過ぎる。
苛立ちを感じざるを得ません。

いわゆる教育困難校に勤めている人の話を聞くと、
「うちじゃ、こんな理想論通用しないよ。」
と遠い目をしています。

学校に来るだけで優秀。まず、ダルいからと学校に来ない。
発達障害や精神障害を抱えている子もいる。
もちろん適切な支援を受けてきていない。
スマホをいじる。イヤホンで音楽聴いて、寝ている。おしゃべり止まらない。
学力は小学生低学年レベル。九九もままならない。
暴言暴力は日常。指導すればエスケープ。
何かあれば、教育委員会に訴えるぞと脅す保護者。
疲れ切った教員。その目には諦めが。

聞いているだけで、涙が出てきます。

「授業をおもしろくすれば
 いい学校を作れる。いい生徒が育つ。」

それをずっと私も信じてきました。
だって、そう沢山の人に言われてきたから。

でも、どんなにおもしろい授業だとしても
聞いてくれる人がいなければ意味がないし、
40人全員がおもしろいと思える授業は不可能だし、
そん中でも教科書の内容を教えるという使命もあります。

国や県も、
マスコミが教育がダメだと叩きまくり、
AIが発達してきたからと、
今からは暗記よりも考える力だ!と
アクティブラーニングなどの施策を実施しています。

先生→生徒のトップダウン形式授業でなく、
生徒同士が説明し合えば知識の定着も段違いだし、
能動的に動くしかないのでやる気が高まる!
という新しい授業のスタイル。

ただ、これが上手くいくのは
きっと進学校や付属学校ぐらいでしょう。

考える力を育てるというのは、
資料を読み込んだり、自分の経験と比べたり、
基礎的な知識があること前提でできることです。

困難校の生徒たちは、
まず知識という土台の部分が欠けていたり、
そもそも誰かに説明してどうするの?
という”目的”を見失っている生徒が多いと思います。
そしてその目的を必死に説明しても、結局聞かない...。

私は教員人生半分以上を
特別支援学級の担任として過ごしています。
障害をもった子たちへの学習も
現行の制度やカリキュラムでは、
対応しきれないことがあります。

現代の学校教育の場では
障害を持った子どもたちは、
生きづらさを感じている場合が少なくありません。
障害の個性が武器になるか、
障害とされてしまうのかは、
所属する社会環境に左右されます。

日本の公教育は、まだまだ残念ながら、
平均点量産教育、偏差値至上主義です。

人と違う能力を持っている子どもを
型にはめて均質化しようとする教育は、
大量生産・大量消費で経済が回っていた時代なら、
最適な方法だったのかもしれません。

しかしその教育は、
子どもたちの突出した才能を
潰してしまう危険を併せています。

これからの世の中では、
すべての科目でまんべんなく平均点を
クリアできることをよしとするのではなく、
得意なことがずば抜けてできることを
よしとする教育の形を
つくっていく必要があると思います。

そのためには、まず何のために勉強をするのか?
という教育の根本をとらえなおすことが重要です。

昔読んだ北欧の教育に関する記事で
「人生はリスクの連続。それを乗り越える答えにたった一つの正解などない。
 危機的な時代に生きることの面白さ。そこから学ぶことの楽しさや喜びを見いだす。
 こうしたことを教える場が学校であり、それをサポートするのが教師の役目だ。」
という言葉がとても印象に残っています。

そのためには、教師が自分の日常生活を大事にしていて、
その経験を教育現場に還元することが重要です。

つまり、いろいろな意味で楽しく生きる術を学ぶ、
それが学校の役割で、
自分の生活を面白いと思えるような学びを
いかに提供できるかどうか。
これが私のやるべきことなんだと、
モヤモヤしていた心が少し晴れた気がしました。

少し見えてきた
希望の光をもっと見たいと、
現状を少しずつ変えようと、
子どもの実態に合うような授業をと模索するも、

激務で余裕をなくし、
その日その日が過ぎていけばいい、
と理想とはかけ離れた気持ちで
日々を過ごしている自分に気づいてしまいました。

これではいけないと、自分を奮い立たせますが、
新しい試みをすれば、あわれみの目で見られるし、
変革を提案しても、
伝統を重んじる、とかいって却下される現状に、
気持ちがさらに萎れていき、
自己嫌悪することを繰り返してしまいました。

ただ目の前の子どもたちを、少しでも経験させて
あとで力をつけてほしい、支援したいだけなのに。
先生が楽しく授業をやることが、
「勉強って楽しいのかも」
と思わせられるものだと信じていたのに。

自分の不甲斐なさを見るのも嫌だし、
もう辛いから、何もみないようにしよう。
そうして心に蓋をするつもりでした。

でも、やっぱり違う。
私がやりたいことは、
未来を担う子どもたちがハッピーになるように
手伝いをすること。

ここから、私の理想の学校探し、
学校づくり探究が始まっていくのです。

続く

よろしければサポートよろしくお願いします。授業準備に使用し子どもへ還元します♫