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理想の学校とは②

去年担任した女の子。
彼女は6年生で不登校傾向の子でした。
6年生になってからは、
修学旅行にも参加できたし、学校に来る日も増えて、
2月末、卒業まであと少し、思い出を作ろうねなんて話していたら、
新型コロナウイルスのせいで、呆気ないお別れが来てしまいました。
そして、本当ならば、中学1年生として、
4月から新しいスタートを切るところでしたが、
それもいつも通りではなくなってしまいました。

中学校入学式の帰りに彼女はお母さんと
小学校に寄ってくれて、制服姿を見せてくれました。

「制服似合うじゃん!一気にお姉さんだね!
 ああ、コロナのせいで、変なスタートになっちゃったね。」
「うん、まあね。でもね、先生。私、内心ほっとしているの。」
「ほう。どうして?」
「だって、正式に学校に行かなくていいもんw堂々とゲームしまくれる。」
「ああ。そういうことね。」
「小学校にはもうちょっといてもいいかなって思ったけど、
 中学校まだよくわからんし。それに、勉強もプリントで済むなら、
 これからずっとその方がいいわ。学校いく意味なくない?」

新型コロナウイルスによる長期間の休校をきっかけに、
これまでの「学力の基礎は学校で築くもの」という考えが崩れて、
「子どもに必要な学習とは何か?」
「学校って何のためにあるんだろう」と
素朴な疑問が浮かんできた方もいるのではないでしょうか。

私もその一人。
もし、 学力や規則正しい生活を家庭で賄えるとしたら、
学校は何のために通わせるのかと。

いじめ・詰め込み教育、
時代錯誤な学校ルール、
教師との不和、教員・教育委員会の不祥事など、
学校についての悩みはつきませんが、
それでも学校に通ったほうがいい理由って何なのか。

「コロナが収束したら、元通りになるといいね…」
とは悠長に言ってられないんです。

今回の事態を学校や学びについて
国民が考えなおすきっかけにしていく
必要があるんじゃないかと。

子どもの学びをよりよいものにしていけるよう、
「学校」についてあらためて考えてみました。

この記事を読んでくださっている方の大半は
学校に通っていた経験があるかと思います。

では、あなたはどうして学校に通ったのですか?

中学までは義務教育だから。
いい大学に進学していい会社に入るため。
何言ってるの?学校に通うのは当たり前だから。
みんなが通ってるからでしょ。

いろいろな答えが浮かんだと思いますが、
私はこんなふうに考えています。

お互いのことを尊重することや
みんなが対等な人間だと理解する
ということを土台にして

自分が生きたいように
生きるための力を育むことが
学校でやるべきこと

もし、学校がこのような教育の本質を
学ぶことができる場であるのならば、
私は学校に来なきゃ損だぜ!
と子どもに自信をもって伝えることができます。

しかし残念ながら、
お互いに認め合えるようになるどころか、
認め合い感度をズタボロにされるような
教育を行っている学校が少なからずあるのが現状です。

例えば、
学校から一方的に与えられたルールの中で
ずっと生活や学習していかなければならないような学校。

こんな学校にいれば、
お互いの自由を認め合うというよりも
お互いの自由を制限し合うための感度が育てられる。

すると価値観や感受性が自分と少し違っていたり、
慣習から外れていたりするだけで
その人を攻撃してしまうような感性を
身につけてしまうかもしれません。

では、具体的に
学校はどんな場所であったらいいのか。

私は子どもたちが自分たちで
自分たちのコミュニティを作ることを経験できる場であればいいなと思います。

子ども、教員、保護者、それぞれが誰かに委ねるのではなく、
子どもたち自身が学びの場のつくり手であることが
学校のあるべき姿だと思うのです。

それがひいては、
自分たちの社会を自分たちで作る、
そんな市民を育む教育にもなるわけです。

現状、多くの学校では、
学びのコントローラーは子どもの手にはなく、
教師や学校が握ってしまっています。

そのことが、
誰かが作ったルールや他人の価値観に人生を委ねて
自分で自分の人生をコントロールできない人間を
育ててしまっている原因になっているのであれば
本末転倒です。

これは、日本の教育制度が
学校や教師主導じゃないと動かないシステムを
約150年間、変えずに続けてきたことで起こった問題と言えます。

明治の時代を迎え、公教育が整備され始めると、
富国強兵と殖産興業のため、上質で均質な兵隊
あるいは労働者を育てるためのものとして機能することになりました。

そこで出来上がったのが、
“同じことを同じペースで、
同質性の高い学年学級制の中、
出来合いの問いと答えを勉強する
というベルトコンベア式の公教育システム。

当時と今では、時代が全然違います。
しかし、公教育システムの大枠は変わっていません。

自由に生きるためには、
生き方や働き方を自分で考えて行動することが必要なのに、
与えられたことを言われた通りにやっていくことが
いまだにあまりに求められすぎています。

これからの時代は、
みんな何もかも一緒という教育には
もうあまり意味はないということを多くの人に認識してほしいです。

休校が長引く中、
9月入学制についても少し話題になりましたが、
4月か9月かの二つの選択肢のみの中、
大した議論もなく結局うやむやになりましたよね。

しかし、世界の教育を見てみると
オランダでは個人の成長に合わせて
入学は誕生月の翌月から〜だったり、
デンマークでは年4回のタイミングの中から
選ぶことができるようになってたりします。

そんな中、日本人は
教育について考えるときは“みんな一緒で”と考えてしまう。
まずは、この発想から脱却することが
新しい教育への第一歩になるのでは?と思います。

また、今回の休校では、
みんなを同じ所に集めて、
同じことを同じように行うことが
教育の機会の均等化であるという
教育システムの問題点が浮き彫りになりました。

本当の意味での教育の機会均等や学習権の保障とは、
すべての子どもたちがある一定の知識や教養を獲得することを
社会が必ず保障するということ。

そのためには、
学びの進み方は人それぞれであっていいし、
むしろそれが当然なのです。

最近よくテレビやウェブ記事を拝見させていただく、
苫野先生(https://ittokutomano.blogspot.com)は、
これからの教育のビジョンとして、
「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」
を提唱しています。

* 学びの個別化とは、いつどこで誰とどんなペース、どんな学び方で学ぶのかなど、学びをそれぞれの子どもに合った仕方で個別化すること。
 
* 学びの協同化とは、個別化を孤立化にしないために、必要に応じて人の力を借りたり、貸したりしながら、支え合って学び進められる環境を整えること。
 
* 学びのプロジェクト化とは、カリキュラムの中核をプロジェクト(探究)型の学習へと転換すること。探究型の学習とは、出来合いの問いと答えばかりを学ぶのではなく、自分(たち)なりの問いを立てて、自分(たち)なりの方法で、自分(たち)なりの答えにたどり着く、そんな学びのあり方です。
 

すでに多くの人が
「今の日本の教育制度は限界を迎えている」
「日本の教育は世界から2〜3周遅れている」
ということを叫んでいますが、

「では何をしたらいいのか」ということについては、
まだまだ十分考えを練られていないのではないかと思います。

今回の休校をきっかけに
今の学校教育に疑問や限界を感じました。
これからの教育のビジョンやロードマップ、
これからの教育に必要なことは何なのかを
もう一度見つめ直すことをやっていきたいと思います。

150年以上続いた教育システムを
変えていくことは長期戦です。
ですが、不安や恐怖による動きは長続きしないと言います。
今回の休校で感じた教育への危機感だけで終わるのでなく、
これからの教育、新しい教育システムにするワクワク感によって、
公教育の構造転換をドライブしていきたいと思っています。

多くの大人や子どものワクワク感が教育機関に共有されていけば、
教育システムはおのずと変わっていく。
そう信じて私は、動いていきます。

さて、具体的に私は何をしたいのか。
次はここを深掘りしていきましょう。

よろしければサポートよろしくお願いします。授業準備に使用し子どもへ還元します♫