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子供たちの母校に思いを馳せて

最近、義母がいろいろモノをなくすことが多いので、母屋の部屋に目にやることが多くなった。


あちこちにいろんなものが散りばめられているので、今まで目にしたことのない珍しいモノへと目が行くことも珍しくない。

この間は、子供たちが通った小学校の「小学校閉校記念誌」を見つけた。

記念誌が発行されたときに、地域の各家に配られたもので、いちど目を通した覚えがあるが、懐かしくて見入ってしまった。


記念のDVDが添付されているとなると、見たくなるのが情。
雨で仕事が休みなった昨日、早速見てみようと、DVDをパソコンで開けてみるも、見ることができなかった。

このDVDが作成されたのは10年ほど前のことで、どうやら今のパソコンの型に当てはまらず見ることができなかったようだ。

そうなると、心理的に更に見たくなる。


メカ音痴な私は、パソコンが潰れはしないかと心配なまま、アプリをダウンロードして、DVDを見ることにチャレンジしてみた!


チャレンジ成功!


正直、自分の母校でもないのに、何の感情も湧かないし、見ても意味がないのではないかと思いながらのチャレンジだったが、画像が流れてきた瞬間、涙腺がゆるんだのが分かった。


ただ、涙がひっこんでしまうほど、映像は短かった。


校歌がながれる、ほんの数分のあいだに流されたものは、65年の歴史を物語る小学校や、子供たちの映像だった。


自分の母校でもないので、校歌を覚えているわけでもないが、娘は最後の在校生のうちのひとりだったので、がっつり写っていたし、息子が6年生だった、閉校する前年度の運動会での組体操の映像も写っていた。


その時の組体操のことが、在校生として娘が書いた作文にも綴られていた。

「組体操で、兄に肩車をしてもらいました。とても不安でしたが、しっかりと支えてくれました」
「サッカーではレギュラーになれて嬉しかったです」

と、習い事のサッカーのことまで書かれていて、一気に感情はその当時へ引き戻され、とても懐かしくなるとともに、いろんなことを思い出した。


そういえば、兄弟で組体操で、組むことはそうないことだと、写真にも収めたっけ。
私たちは、5,6年生か、6年生のみだか忘れたけど、ごく一部の上級生のみの出場だった。


子供たちの学校は、創立されて15年ほどのあいだは、全校生徒百人以上いて、常に毎年30人足らずの卒業生を送り出していたようだ。

それが、年月を追うごとに、一学年当たりの人数は減っていった。

夫が卒業したころは、一学年当たりの人数は十数人が常となっていたようで、夫の学年は9人だった。

「記念誌」には、第一期生から、さいごの卒業生である息子たちまで、卒業式の集合写真と名前が載っていて、歴史を物語っていた。
義兄も、義姉も、夫の名前も載っている。

さいごの写真は、閉校当時の在校生の写真で締めくくられていた。


さらに年月を重ね、息子たちが入学するころには、複式学級で、毎年数人を新入生として迎え入れる年が続いていた。

息子は、同級生が二人、娘は、同級生が三人いたが、それでも何気にベビーブームの年に生まれた。

全校生徒は、常に十数人。

だから、運動会の組体操も、全校の生徒だけではなく、先生もサポートとして出場する。


普通の学校の組体操に比べれば、勢いや盛大さに欠けるが、ひとりひとりの役割は重大で、当日に向けて、上級生が下級生をサポートしながら、練習してきた一生懸命さが伝わるような組体操だった。


運動会といえば、地域の一大行事で、息子たちも通った隣接された保育園の子供たちから、老人会や婦人会も含めて、地域の人たちが集って参加した。

もちろん、運動会ならではの場所取りも必要ないし、子供が出場するときには見落としもない。
義父母も、ゲートボール競争に出場するし、お昼は家族6人で一緒に食べた。


子供たちが保育園生のときには、親子ダンスがあって、わたしも音楽に合わせて苦手なダンスを子供たちと踊ったり、締めの地域の音頭(私たちは河内音頭が定番だったな。)も今となっては懐かしいが、他にも思い出はある。


息子たちが、まだできて間がない鉄筋の校舎へ入学することになったのは、もう随分前のことだが、その少し前まで、木造の校舎があったのを覚えている。

いかにも田舎の古めかしい、それでいて風情のある校舎で、鉄筋の校舎しか見たことのない私は、「すごーい!」と驚いたものだ。

息子や娘が入学するころには取り壊され、新しく建てられた鉄筋の校舎で、6年間を過ごした。

保育園から持ち上がりでメンバーが変わらないこともあって、アットホームな感じで、もちろん皆顔見知り。


いちばん感激したのは、夏休みにある自由解放のプールは、子供たちにとって貸し切り状態。

わたしも時々、プールサイドから子供たちが遊ぶのを見守った。
地域の住民の親戚関係なら、利用してもよいことになっていて、時々他の学校の子どもたちがやってきたが、広いプールを持て余すくらいで、時には、先生が「スイカをたべよう」と、持ってきてくださった。

小学生の頃のプールの時間の終わりに少しばかりあった自由時間や、夏休みのプールの自由解放、市民プールでも、いつもイモ洗い状態というほど、教室だけではなく、プールの中でも人口密度が多かった私からすると、羨ましい限りだった。

他にも、授業参観はいつも、先生が全員平等に当ててくださるし、保育園の子供たちや、婦人会を交えての餅つきも学校で行われたし、時には、校長先生が校庭で一緒に遊んでくださった。


子育てに一番熱が入っていた時期だったということもあるが、生徒の数が少ないだけに、子供たちの成長を学校行事を通してでも色濃く見られて、息子が小学校を卒業するときには感無量で、随分涙したのを覚えている。


娘は5年生のとき、スクールバスで下の町の小学校へ転校となり、二年足らず通ったが、小学校への思いがそこまでなかっただけに、娘が小学校を卒業するときには、そこまでの涙はなかった。


今では建物だけ残っている山の小学校は公民館として使われるだけになり、昔は畑に居てでも、学校から子供たちの声が響き渡っていたことを思えば寂しい。

頻繁に学校の建物の横を車で通るが、山の小規模校ならではのゆったりした雰囲気の中で、子供たちがのびのびと育ったことを懐かしく感じることがある。


私が通った、全校生徒数百人が通う小学校にはない良さがあったと、改めて思う。


ちなみに、娘が2年足らずのあいだ通った町の小学校の傍も通ることもあるが、懐かしさは感じられない。

子供たちが中学生の間まで乗ったスクールバスに、近くの集会場で子供たちが乗り降りしているのを、見かけると懐かしいと思ったりはするけれど。


自分が通った小学校、中学校は今なお残っているようだが、自分の通った学校以上に、子供たちが通った山の小学校の方が懐かしく思える。


それは、自分の子ども時代や、自分が通った学校への思いに比べれば、山の小学校への思いの方が強いからかもしれないが、懐かしく思える場所が存在することは、とても幸せなのかもしれない。


自分が子供の頃のころや、その場所のことはあまり思い出したいとは思えないが、子供の幼い頃のことや、ゆかりの場所のことは、懐かしく暖かい気持ちにさせてくれる。


DVDを見ることに挑戦出来てよかった!


いろんな感情が湧き出て「note」に書きたいと思ったし、記事を書きながらにして、新たに湧き出る懐かしい感情。


子供たちの小学校が廃校になったのは寂しいけど、とても幸せなことだと思う。

私にも、心穏やかに思い出せる故郷のような場所があることに気付けてよかった。


意外だったのは、義兄の時にも、義姉の時にも、夫の時にも、小学校の卒業式の集合写真にちゃんと義父の姿があったこと。すごいやん!

育児にはからっきし参加しなかったし、家のことは放りっぱなしだったと聞いたけれど。

若かりし頃の義父。すぐ分かった!
夫のことも、すぐ分かった!(笑)

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