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この年になって分かってきた母のこと
きっとね、あなたのことが可愛くて仕方がなかった祖父母は、良かれと思って、父との結婚を進めた。
最大なる愛情をあなたに注ぐ祖父の進めならと、あなたの心は踊るように舞い上がった。
母は父のことを、大いに気に入ったとか言ってたしね。
父方の祖母によると、意外と父は冷めていたとか。
祖母は言ってた。
あの子は、姑の居るところでは務まらない。だから、お父さんとの結婚を進めたんだよ・・・と。
あのこは、姑のいるところではやっていけない・・・と。
祖母自身は、姑とのことで苦労したとか言ってたから、娘を想ってのことだったんだと思う。
小さなアパートから始まった新婚生活は、子供を授かって部屋数も必要だからと、中古の一軒家へ移り住んだと言ってた。私が物心ついたころにいた家だ。
駅からも父の会社からも近い便利な場所。
だけど、母のたっての希望で、閑静な住宅地へ引っ越した。
今度は、会社から離れた場所。
私が小学校へあがるタイミングだった。
父の帰宅時間は遅くなった。
サラリーマンがよく働いた時代背景もあって、父は働くのが精一杯だった。
家事や育児は、母ひとりでしていて、父は家庭を顧みることはなかった。
当時の時代背景からくる、家族構成はそう珍しくなかったと思う。
大手電機メーカーで働くサラリーマンの父と、専業主婦の母。
そして、私たち兄弟3人。
兄弟いちばん下の妹が幼稚園か、小学校入学のタイミング位に、母はお向かいの奥さんのように、自分も原付バイクの免許を取ってパートに働きにでたいと父に申し出た。
父は反論した。
父が母に対して反論したのは、この時が初めで最後だったかもしれない。
危ないから・・・と。
いい年した嫁にむかって言うことではないが、父の立場もあってのことだった。
結婚して二度の引っ越しの大半を用立てたのは、(母方の)祖父母だった。
祖母は、めったに里帰りしない娘が帰ってくると、娘のことより、娘婿のことをいつも立てた。
〇〇さんは、本当に良い婿さんで・・・
父は恐縮しているみたいだった。
そして、私に言ったこともあった。
「お母さんのご両親はほんとうによい人だよ」と。
だけど、内心はどうだったんだろう。
母子家庭の父が、ひとり自分の母を残してきた立場で、嫁の両親が、自分の娘が苦労しないようにと先回りし・・・。
父が安月給だったのかもしれないけど。
祖母は、自分の娘の器量を知っているからこそ、大げさほどに褒めて婿を立てた。
だけど一方で、父のことを「気が利かない」とも言ってた。
父の不器用なところに歯がゆさを感じながらも、父を立てたのだと思う。
娘のために。
そんな祖母のことを考えると、母を働きにだすことが出来なかったのだろうと思う。
働きにでることを断念した母は、ますます育児に専念した。
家に籠ることの多かった母は、そのうち体調を崩すことが多くなった。
弟の派手な反抗。
仕事に忙しい夫。
母の私に対する過干渉は、ますますひどくなった。
どうにか枠にはめようと、そればかり。
ひどい口答えはするものの、最終的には母の言うとおりにする私。
たぶん、母は私に嫌われることは前提だったと思う。
だから、嫌われたくない妹には同じようなことはしなかったし、弟に対しても顔色を窺って機嫌をとるばかりだった。
それが功を奏したのか、数年たって、弟の反抗は収まった。
それを裏付けるかのように、結婚するときに、主人にいちど言っていたことがある。
この子だけは、どこへやっても(嫁がせても)やっていける子にした。
母のその言葉を聞いたのは初めてだったけど、思いが確信に変わった瞬間で忘れない。
やっぱし・・・。(私だけちがったんだ・・・)
悲しかった・・・。
父方の祖母は、「この子は、橋の下で拾われた子なんやで」と主人に言った。
それだけ、他の兄弟と扱いがちがうということを例えて伝えた。
だけど、言ってくれた。
この子が、孫のなかで、いちばんまともな子なんや。と。
父と母との距離感は、ますます広がっていった。
母はいつもイライラを私にぶつけていた。
私が家を出た後、父は言ってた。
お母さんの更年期障害がますますひどくなったよ・・・と。
私は何も言えず黙っていた。
母の性格も知っているし、当時の母の精神状態は普通ではなかった。
それに、私はすでに実家を捨てようとしていた。
父はとても不器用だった。
酒もたばこもギャンブルもしない。
とてもまじめな人だったけど、母とどう接してよいのか分かっていなかったようなそんな人だった。
分かっていないと自分で自覚するならまだしも、常にひとりの世界で入り浸って、家族に興味がないような人だった。
とても厳しい祖母に育てられ、愛情の掛けられ方がある意味偏っていたと思うし、父の場合は、他者とのコミュニケーションが苦手なひとりっ子だった。
そんな祖母から逃げたかったのか、高校を卒業すると、地元の企業からも内定を頂いていたのに、大阪の企業へ就職したと祖母は悔いるように言っていたことがあった。
いつも自信なさげで頼りがいがなかった父に、母はいつも不満をもっていた。
年月がたつほど、ますます母とは会わなくなったけど、随分久しぶりに会っても、母はいつも不満そう。
弟や妹を自分の思い通りに傍に置いてでも、満たされていない感じがする。
身体が思い通りに動かないから、その思いを助長させるのかもしれないけど、めったに会わない私と会うなり、電話なりしても、娘であるわたしに対して情をもっているように感じない。
相性が悪いのだろうか。
満たされない思いをぶつけやすいのだろうか。
私にまくし立てて食ってかかってくるのを、私が一方的に切って終わらせたこともある。
先日の電話も、穏やかではなかった。
どんなに私が大変か分かる?弟や妹で私の生活は成り立っているのよ。と。
だから、もう終わり。
感謝はしているけれど、これ以上火傷はしたくないもの。
別に今更それに対して、怒っているわけではない。
そういう母に対して、「愛情」が湧かない。「情」さえない。
お互い、そうなのかもしれない。
今年の誕生日はこちらから電話しなかった。
向こうからもかかってこなかった。
箱入り娘で育ったといえども、どこかに長女気質があるからだろうか。
どちらも、兄弟のいちばん上、長女の母と私は似ている。
真面目で、融通が利かなくて頑固で・・・。
たぶん、一生懸命だけだったんだと思う。
だけど、力の入り方が空回りしたんだよね。昔のわたしと同じ。
私を産んでくれた時は、存分に愛情を注いでくれたんだと思う。
写真の数がモノがっている。
もしかして、生まれた当時は、他の兄弟以上に。
だけどね、気付けばよかったのに。
不平不満は、自分が立ち回らなきゃ、解消されないよ。
自分を満たしてあげることもできない。
相手も変わらない。
自分が動かなきゃ。
身体なんて特にそう。
一生動いてなきゃ、いうこと聞いてくれないよ。
それと、子供に愛情があれば、必要以上に、崖から突き落とすようなことしなくていいと思う。
ずっとつながっていたいのなら・・・。
もし、大阪で父とふたりっきりで、家を構えていたら、また違っていたのかもしれないのにね。
祖父母が結婚生活のお膳立てをしてくれたのが、逆風だったのかもしれない。
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