久しぶりに「サライ」を聴いたら。
きのうは、ずっとテレビで、追悼の意を込めて谷村新司さんのことが取り上げられていた。
堀内孝雄さんと、もう一人のかたと、グループ「アリス」を組まれていたのは知っていたが、ドンピシャ時代ではなかったので、失礼ながらそんなに興味があったわけではない。
だけども、かの有名な「いい日旅立ち」を提供されたのは知っているし、他にも聴けば「あぁ!」という曲は、いくつかある。
そんな私でも、谷村新司さんが作詞されている曲のなかで、「サライ」は忘れられない。
初めて聴いたのは、忘れもしない、結婚して数年たったころの「24時間テレビ」のエンディングだ。
歌い出しの歌詞にくぎ付けになった。
あの時の自分と重なって。
ボストンバッグひとつ下げて、「じゃ、行くわ」。
不愛想なわたしに、背中で見送る母。
確か別れ際に、「ホンマに行ってしまうんやな」みたいなことを言ってた。
出たくて出たくてたまらなかった実家。
駅に向かう道中は嬉しくて仕方がなかった。
だけど、「今まで育ててくれてありがとう」みたいなこと、言えばよかったかなと少し後悔。
何も言ってこなかったなと、少し気がかりになったのを覚えている。
それでも、足取り軽く、駅へ向かう私。
幾度も利用した電車に飛び乗ると、心境は微妙に変わっていたのだろう。
見慣れた駅舎を背に、風景が動き出すと、不意に涙がでてきた。
周囲の人に泣き顔を悟られないように、窓際にたって、流れゆく風景をじっと眺めた。
居心地悪かった実家を、あんなに離れたかったのに。
それに、故郷となる地には、そんなに良い思い出はなかったのに。
それは、紛れもなく、その地を離れる寂しさと不安だった。
それくらい、親に守られていたということだろうか。
だけども、憧れや希望も持ち合わせていて、とても複雑なおもいだった。
ちょうど二十歳のことだ。
就職した後も、幾度か実家に帰ることもあったが、よい思い出はない。
それでも、時々、あのときのことを、何かの拍子に思い出すことがある。
「サライ」を初めて聴いたとき、あの時の原風景が蘇り、涙があふれた。
私にとって、あの時が人生のはじまりだった。
私が小学校入学の時から15年ほど暮らした故郷というべき実家を思い出したが、そのとき既に、帰ることもなくなっていた。
今回、久しぶりに「サライ」を聴きたくなった。
思いはあの時と同じで、自然と涙があふれる。
だけども、歌詞の一部分で、ふと我に返る。
昔、聴いたときには、そこで我には返らなかったが、父が亡くなってから聴いたのが初めてのせいだろうか。
「やわらかな日々の暮らしを、なぞりながら生きる」ように、人生が変わったからからだろうか。
遠いとおい昔、父も母も若かりし日、幼かった私は、幸せだったのかもしれない。
父の笑顔も、母の笑顔も、そこにあって、弟もヤンチャしながら賑やかな一家。
まだ、妹もわたしを姉として慕って、後を追いかけてきた。
父にも母にも愛されていたのかもしれない。と、微かに思い出がよみがえる。
その後は、
「まぶたとじれば 浮かぶ景色が
迷いながらいつか帰る 愛の故郷(ふるさと)」
のフレーズが幾度かでてくる。
私が家を出て数年後、父が定年を迎え、その家は引きはらい、両親の故郷となるこちらへ帰ってきたので、私にとっての実家はもうない。
新居となる家は、母方の祖母の傍に建てられているが、一度も足を踏み入れたことはない。
「実家」とよべるところはもうないけれど、故郷は形を変えつつ、そのまま存在している。
そこでどんな思い出があろうとも、親元を離れるまでに過ごした、大阪のあの場所が故郷だと、改めておもう。
この歌は、全国の視聴者から寄せられた愛のメッセージを基に、谷村新司さんが作詞されたというから、ある程度年を重ねた方は、そのような原風景を共通してもっているのかもしれない。
「いつか帰る場所」がないことに、一抹の悲しさや寂しさをかんじるが、この先、更に年をかさねても、この歌を聴くと、あの原風景を思い出すのかもしれない。
また、年を重ねるごとに、捉え方や印象も変わっていくのかもしれない。
昨日は、鼻歌まじりで「サライ」を歌いながら、夕ご飯のおかずをつくった。
谷村新司さん、素敵な歌をありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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